2013年1月16日 (水)

主題 <わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある>

聖書箇所 列王記第一  9章   (2012年12月18日)

今日のみことば「わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある。」(3)

 王に即位した頃にギブオンで語られた主は、今や20数年の後、再びソロモンに現れて語られました。神殿建築が終り、その祈りを聞いたと言われ、神の目は常に神殿に注がれているといわれている。
もし、全き心と正しさをもって歩くなら、ダビデの王座を永遠に確立しよう(4~5節)。けれども、もし、その神への敬虔を忘れるなら、反対に失敗と崩壊と物笑いになると警告している。
 旧約聖書での契約は即物的、現世的なものです。もし、神のみこころに従う生活を歩むなら、必ず繁栄があることを神は約束されました。
 しかし一方、神を愛することを第一にしないなら、反対のさばきのみことばがあります。旧約聖書のイスラエルの歴史はその神の審判のことを物語っているのです。
 私たちも、神をおそれることを忘れた時、現実にさばきがあります。霊的にも祝福を失い、現実的にも祝福を失うのです。神様の目と心は常に神の宮である教会にあり、クリスチャンの心の中にあるのです。

<きょうの祈り>主よ。この個人的な祈りにも、教会における兄弟との祈りの中に、あなたがいて下さることを感謝します。臨在を常に覚えさせて下さい。

主題 <ソロモンの祈り>

聖書箇所 列王記第一  8章   (2012年12月17日)

今日のみことば「王は誓って言った。「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てた宮など、なおさらのことです。」(27)

 この時のソロモンの祈りは有名です。ことに心をとめなくてはいけないのは、偉大な神へのソロモンの謙遜さです。
 有名なソロモンの神殿、美麗な金でおおい尽くされたこの建築物も、神を入れることはできない。神はこの地上に住むようなちっぽけなお方ではない。神を入れる建物は、天も、天の天も入れることはできないと告白する。『まして、私の建てた宮など、なおさらのことです。』と。歴史に残る偉大な神殿も、神の目から見ればささいなのです。
 しかし、この神殿においてささげる王や人々の祈りを聞き、罪を赦し、報いて下さり、神の名を置いて下さいと祈っている。神が隣在される神殿に置かれていたのは、神の箱ですが、そこには主の名が置かれ、主の名を呼び求める者の祈りを聞かれる。
 イエス・キリストの変貌山での出来事にも相通じ(マタイ17:5~)、あのイスラエルのタボル山でも神が臨在してくださったのです。それはイエス・キリストの何より祈るクリスチャンの祝福である。

<きょうの祈り>主よ。あなたが、この私の心と祈りに耳を傾け、心を注いで下さることに深い感動を覚えます。

主題 <ヤキンとボアズ>

聖書箇所 列王記第一  7章   (2012年12月16日)

今日のみことば「彼は右側に立てた柱にヤキンという名をつけ、左側に立てた柱にボアズという名をつけた。」 (21)  

神殿の入り口の柱に2つの名を刻印した。ヤキンとボアズと記してあるが、これはソロモンの神への姿勢であろう。
 ヤキンとは<設立する>の意ですが、神の宮を建設するにあたり、ソロモンの心に働きかけ、完成した感謝である。神が彼を喜び、彼の生涯をかたく立て上げるとも、とることができる。神を愛する者に対して、あらゆる点において神は確立して下さるという意味です。
 ボアズは<力をもって>の意味だが、これも両方にとれる。ソロモンが、自分のなしうる限りの力を尽くして神をよろこばせている意でもある。そしてまた、神が愛する民、慕ってくる民に力をもって与え、強めて下さるという意味をもつ。
 この2つの門柱の名前は、私たちがいつも心に留めておいてよいものであります。第2テモテ2章19~22節も参照してください。

<祈り>主よ。あなただけが私の生涯を初め、完成させて下さいます。そして、この私は精一杯、あなたの導きに従います。

主題 <神の教えに従う> 

聖書箇所 列王記第一  6章   (2012年12月15日)

今日のみことば「あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、……」(12)

神殿を建てることは、父ダビデが神のみこころと知り、主がよろこばれることを知り、その子ソロモンが建築にとりかかっている。
この建設の途中で、主のことばがかけられています。
 私たちはみこころを行うために、事を始める前、途中、そして完成する時にも常に導きを必要としています。
このみことばは3段階で記されている。
 第1は、おきて、さだめ、命令とあるように神のことばです。
 第2は、そのみことばに歩み、行い、守るという服従です。
 第3は、みことばに従う者への3つの約束があります。
  イ) ダビデへの約束を成就する。
  ロ) イスラエルの民の間に住む。
  ハ) イスラエルの民を捨てることはしない。
 新約聖書的な響きをもつこのことばが、今も私たちの心を打つ。
 「もし、あなたが歩み、…」は、「神もし我らの味方ならば誰か彼らに敵せんや」(ローマ8;31)とは同じ意味であろう。

<祈り>主よ。きょうの一日も、自分の力や知恵でなく、最初も、中間も、最終的な結果も、あなたに依頼しつつ歩ませてください。

主題 <友情のもつ祝福>

聖書箇所 列王記第一  5章   (2012年12月14日)

今日のみことば「ヒラムはダビデといつも友情を保っていたからである。」(1)  

 レバノンの山に住む王ヒラムはダビデと共に、その子ソロモンにも変わらぬ友情を示し、真実の友人として描かれている。
 ダビデの時は、王宮を建てるために建築資材を提供している。このことの注記として、「主がダビデを堅く立てられていることを知った」と2度も記されている。(Ⅱサムエル5;11、I歴代誌14;1)
 そして、今ソロモンが主の宮を建てようという時に、ヒラムに頼んで材木を用意したのでした。
 友情を考える時、忘れてならないのは、主にある交わり、友がきである。ダビデの時もソロモンの時も、ヒラムとの交わりに主が関与していることが書かれている(12節)。こうした主にある交わりが忘れられると、必ず友情さえ破綻し、悲哀が生まれてくる。
 私達が教会における友情を考える時にも、単なる気が合うからという交わり、人間的、また利益でつながる肉的な友情であるとすれば、気をつけねばならないと思う。霊的な神との交わり、主の中の交わりこそ、兄弟姉妹の交わりであり、永続する友情になるのです。

<祈り>主よ。あなたの恵みで人と人を結ぶ信頼を据えてください。

主題 <海辺の砂浜のように>

聖書箇所 列王記第一  4章   (2012年12月13日)

今日のみことば「神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。」(29)

 神は生きておられる。これが旧約聖書の時代における聖徒たちの強い信仰であった。そしてこの神を信じて祈るソロモンに人並みはずれた祝福を注いでおられる。
 後の預言者たちは、何度もダビデのゆえにイスラエルに祝福を満たし、約束を成し遂げると言われている。
だが、神に心を開いたソロモンに、神もまた数え切れない祝福を満たしたのです。非常に豊かな知恵を満たしたのです。数多くの知恵の書である箴言のことばを見出したのです。理解することよりも自ら示し、人々を指導したのです。人生の知恵、生活のあり方、家庭のあり方、政治や経済の道筋を教えることができたのです。
この大きな広い心は、誰もまねのできないほど豊かだった。彼の優れた知恵を求めて世界中から人々が群れをなして集まってきます。それにつれて、経済も、政治的な力をも増し加わります。
このすべての源泉は神であったことを記憶に刻みたい。神の知恵をいただいたゆえの祝福なのであり、それゆえに神にのみ栄光を帰さなくてはいけません。事業の成功も、家庭の祝福も、健康も、友人も、一日の生活も神によって支えられていたのです。

<祈り>海のような広い心と深い知識と山のような高潔な理想を与えて。

主題 <聞き分ける心を>

聖書箇所 列王記第一  3章   (2012年12月12日)

今日のみことば「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」(9)

 神が、「あなたに何を与えようか。願え。」(3)とみ声があったなら、あなたはいったい何を求めるだろうか。静かに立ち止まって考えてみたいのです。そこにあなた自身の姿が描かれるでしょう。
 ソロモンは、このときは謙虚で、ゆだねられた責任をし遂げることのみが唯一の関心でした。ですからこのおびただしい民衆をさばく知恵を求めたのです。神はその願いを満たしただけではなく、長寿も、富も、名誉も備えられたのです。
人は天から与えられなければ何物をも手にすることはできないのです。どんなにあがいても、叫んでも、徒労に終わります。でも神についてこの散り扱いを見るとき、求めたソロモンに惜しみなく祝福を注いでおられることをみることができます。あらゆる恵みに富んでおられる神は、人のすべての必要に応える以上のことをされるのです。
 祈りについての新しい見識を見出すことができます。神の持っておられる思いに十分に応えられるような祈りはどうしてできるだろうか。私たちの欲望や自己中心な祈りになぜ傾くのだろうか。いや、自分の使命を力限り果たすための祈りにどうしてなれるのだろう。今日はこの点を深く考えたい。

<祈り>聞き分ける心を、ゆとりを、信頼を増し加えてください。

主題 <あなたが栄える秘訣>

聖書箇所 列王記第一  2章   (2012年12月11日)

今日のみことば「強く、男らしくありなさい。あなたの神、主の戒めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに、主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。あなたが何をしても、どこへ行っても、栄えるためである。」(2~3)

 あなたのご自分の生きてきた生涯の一番重要な心得は何でしょうか。はっきりと言葉にでき、それを子供たちに継承できるなら十分でしょう。たとえそれが目立たないことのようでも、真実な、命をかける言葉でありたいと思います。
 ダビデは、昔モーセが申命記で命じたように、神の命令に生きる王こそ最も重要な鍵を握っていることを息子で、王位を継承するソロモンのために言葉を残している。それは聖書を基準にして国家を形成することです。この神の律法を守り行うことは、小さい単位である私たちの家庭でも、自分個人でもそうです。たしかな基準のない世界は不幸です。正しい律法を守ることこそ、国民への光となり、希望となり、権威となるのである。
 しばしば、私たちは錯覚してしまう。知識や学歴、財産などを積み蓄える中に人々からの尊敬を集めるかのように考えます。しかし、神の言葉こそその鍵を持つ。今日のあなたの権威の源は、神の言葉に従う生活であることをしっかりと心に刻んで始めたい。

<祈り>父よ。強く、雄々しく歩む聖書への信仰を与えてください。

主題 <主は生きておられる>

聖書箇所 列王記第一  1章   (2012年12月10日)

今日のみことば「王は誓って言った。「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。」(29)

 ダビデの最後の後継選びの諸課題を見る。そこには、ハギテの子アドニヤのように場違いのように「私が王になろう。」と言って、戦車、騎兵、それに、自分の前を走る者五十人を手に入れたのです(5)。彼はダビデの第四の王子であり、上の三人が死亡しており、自分が王位を継ぐことを想定していたと思えます。しかも、国家への愛や誠実さよりも野心を抱いているのです。
 私たちはいろいろな現実の状況を見つめるときに、人間不信に陥ることがしばしばである。野心や自己中心、虚栄などさまざまだからです。
そうした経験の中からダビデは、「主は生きておられる」という不動の確信をつかんでいたのです。人間は問題に囲まれてたくさんの失敗をするものです。しかし本当の失敗は失敗から何も学ばないことです。失敗から見いだす優れた神の真理、神の存在、神の知恵がある。『イスラエルの神、主は生きておられる。』人の思惑に支配されることなく、堂々とした人生を歩んでいい。神はおられ、あらゆる苦難から救い出してくださるゆえに。

<祈り>父よ。人間不信に陥りそうな私を、信仰の目を上げてあなたを見、あなたの存在を信頼して歩む、より優れた信仰者にしてください。

主題 <犯してしまった罪に対して>

聖書箇所 サムエル記第二 24章 (2012年12月 9日)

今日のみことば「ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」」 (10)  
 ダビデは人口調査を思い立った。主がそうさせたように書かれているが、実はそうではなく、ここにはダビデの罪が潜んでいたのである。それ故に、ダビデは後に、罪を告白して赦しを求めている(10)。
 人口調査は、兵力の把握のためであった。イスラエルの安全と繁栄は、ただ主によるのであったが、この人口調査には、国力増強という人間的な目論見ががあり、それは主に対する不信と高ぶりが潜んでいた。調査の結果、イスラエルの兵力は八十万人、ユダは五十万人とわかった(8、9)。
 この人口調査という一見なんともないと思われる行為が王の犯した不信の罪のために、わざわいが科せられることとなった。三つの選択肢のうち、ダビデは三日間の疫病を選んだ。主のあわれみに望みを置いたのである(14)。全土で七万人が疫病によって死んだ。都を滅ぼそうとする御使いを見て、ダビデが、わざわいは王と王家の上だけにと、とりなし祈った時、主は、エブス人アラウナの打ち場のところで御使いが民を打つのをやめさせた(16、17)。
 ダビデは、主に従って、アラウナの打ち場を買い取り、そこに祭壇を築いて、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。主はこの国の祈りに心を動かされ、神罰はやんだ(25)。この打ち場は、やがて神殿の立つ場所となる(I歴代22:1)。ダビデはアブラハムの子孫として、主の約束を信じる代わりに、民を数えるという不信の罪を犯した。その罪を蹟うための祭壇が、そこに築かれ、やがては神殿が建てられた。主は人の不信の罪さえもお用いになって、ご計画を成し遂げられた。