2012年4月 2日 (月)

主題 <全能の神への信頼> 

聖書箇所 創世記 43章     (2012年 4月 2日)

今日のみことば「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」(14)

 エジプトから持ってきた食料も食べ尽くしてしまった父ヤコブは、再び、エジプトに食糧を買いに行ってくれるよう子どもたちに頼んだ。しかし、ユダはエジプトへ再び食料を買いに行くときには、末の弟ベニヤミンを連れてくるように言われていたことを告げた。ヤコブはヨセフを失った時のように再び悲しみを経験するのではないか不安となる。そこに、ユダは「私自身が彼の保証人となります。」(9)と言って、ベニヤミンと共に行くことを許して欲しいと願い求めた。かつて、弟ヨセフをエジプトに向かうイシュマエルに売り渡すことを提案したのはユダであった(37:26~27)。そのユダが今度は決して、弟を失うことがないようにと命がけで望む意志を示している。長い時間を経て、家族関係の中に変化が生まれてきていることが伺える。
 ヤコブはユダの訴えを受け入れつつ、最終的には「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。」(14)と言い、すべてのことを神の御前にゆだねていく決心をしました。これまでも、「全能の神」の助けを頂き、導かれてきた生涯を歩んだヤコブであった。大きな不安のよぎる中、これから先のことを全能の神の前にゆだねていくということは、改めて神への信頼を確認する時となった。
 ヤコブの決断のもと、兄弟たちはベニヤミンを連れて、エジプトへ向かいます。そのエジプトの地で、ヨセフから予想もしない歓待を受け、兄弟たちはさらなる不安を覚えていきます。しかし、エジプトへ行った兄弟たちも全能の神の前への信頼が問われていたと言えます。私たちの人生を保証される全能の神に信頼して歩もう。

主題 <兄弟との再会>

聖書箇所 創世記 42章    (2012年 4月 1日)

今日のみことば「ヨセフは彼らから離れて、泣いた。」 (24)

 エジプトにあった飢饉は、全世界にも及ぶ飢饉でもあり、エジプトから遠く離れたヤコブやヨセフの兄弟たちも例外ではなかった。この飢饉が再び離れていた家族を導くことになる。仲たがいし、失われた家族関係と思われたが、神のなさることはまことに時にかなっている。困難の中にも背後に働かれる神の御業とご計画の奥深さを知らされる出来事を聖書は記録されていると言えよう。
 ヤコブはヨセフの兄弟たちをエジプトへ食料の買い付けに行かせる。そこでエジプトの首相となっていたヨセフと再会する。ヨセフは兄弟たちであることが一目で分かった。そこでヨセフは兄弟たちに間者(スパイ)容疑をかけて拘留するが、その監禁所にて、兄弟たちがヨセフにした罪を悔いていることを知る。そもそもヨセフは兄弟たちを恨んで監禁したようにもとれる行動であるが、実は兄弟たちが内心どのように思っているかを知るために、また、末の弟がいることを知って、どのように扱われているかを気にして試したことであった(15)。
 結果的にはヨセフは兄弟たちが悔いていることを知り、さらには自らも兄弟たちへの愛は失われていないことを涙を持って確認させられ、三日間の拘留の後、多くの食料を隠し持たせて帰らせていった。この時、まだ、自らの正体を兄弟たちに明かしていない。真の和解のための時は先に残されていく。いくらかの時間を要して、空けられた時間を埋めていかなければならなかったのだろう。
 ヨセフはかつて兄弟から受けた仕打ちを忘れ、もう、速やかなる優しさと愛をもって兄弟たちに向き合っている。私たちも怒り、憎しみを捨て、愛に向く者とならせて頂きたい。

主題<パロの夢を解き明かす>

聖書箇所 創世記 41章    (2012年 3月31日)

今日のみことば「そこでパロは家臣たちに言った。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」」(38)

 パロは、夢を見た。その一つは、彼がナイル川のほとりに立っていたとき、七頭の肉づきの良い雌牛が上がって来て草をはんでいたが、その後から上がって来た七頭の醜いやせ細った雌牛が、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした、というものであった(1~4)。もう一つは、七つの肥えた良い穂が出て来たが、後から出て来た七つのしなびた穂が、肥えて豊かな七つの穂をのみこんだ、というものであった(5~7)。
パロの見た夢を、解き明かすことができる者が見当たらず、そこで献酌官長に思い出されたヨセフが監獄から連れ出され、パロの前に出た(14)。
ヨセフは、パロの見た夢の内容を聞いて、その夢を解き明かした。それは、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れ、そのあとに七年間の飢饉が起こるというものであった(25~31)。それ故、この地が飢饉で滅びないために、豊作の七年間に食糧を集める行動をただちに起こすようにと、ヨセフはパロに進言する(33~36)。その結果、何とヨセフは、エジプト全土を支配する地位を与えられた(41-43)。
 ヨセフは監獄の中にあっても、晴れて監獄を出てパロの前に立っても、少しも変わらなかったことがある。それは、神がヨセフと共におられ、主にある豊かな交わりが保たれていたことであり、夢の解き明かしも神のなさることであることを明言している。信仰を見失わず、主に仕えている者として歩んであることを証ししていた。
 私たちも主の栄光を証しする者として今日を歩ませて頂きたい。

主題 <ひとつのきっかけ>

聖書箇所 創世記 40章    (2012年 3月30日)

今日のみことば「ふたりは彼に答えた。「私たちは夢を見たが、それを解き明かす人がいない。」ヨセフは彼らに言った。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。さあ、それを私に話してください。」」(8)  
40章には、獄中にいたヨセフが、エジプト王の献酌官長と料理官長のふたりの夢を解き明かしたことが記されている。
 ヨセフは、主人の誤解によって監獄に入れられていたが、その監獄に、エジプト王パロに罪を犯した献酌官長と料理官長の二人の廷臣が入って来た(1-3)。その二人が、同じ夜に夢を見たのであるが、その夢には意味があった(5)。それぞれの夢の意味を、ヨセフが解き明かした(12-15、18、19)。
ヨセフの夢の解き明かしは、この後のヨセフの生涯を大きく変えていくことになるが。この時点では何ら自覚されることなく、また、夢の解き明かし通りになった献酌官長でさえ、夢の解き明かしをしてくれたヨセフのことを一時的には忘れてしまっている。ヨセフにとって夢の解き明かしをしたことは、監獄と言う閉鎖的な場所における一つのささいなことであったととれる。しかし、この夢の解き明かしを導かれたのは神ご自身であり(8)、このひとつのささいなことに思えることが、大きく人生を変えていくことになっている。
私たちは、しばしば問題の解決につながらないと意味がないと安易に考えていないだろうか。ヨセフの場合、夢の解き明かしをしたことをきっかけに監獄から出れるように取り計らって欲しいと願いますが、その後、2年間も忘れ去られてしまう。その意味では、何の解決も見られなかったと言える。しかし、ヨセフがしたことは実は絶大な信頼を生み出し、将来、用いられていくことになるのである。
小さなことにも忠実に、誠実に行い歩むことが、大いなる幸いの近道になることを覚えたい。

主題 <誠実を尽くすヨセフ> 

聖書箇所 創世記 39章    (2012年 3月29日)

今日のみことば「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」(23)

 39章は、再びヨセフの話に戻り、物語は続いていく。
 エジプトに連れて行かれ、ポティファルに買い取られたヨセフは、その家で、主人の絶大な信頼を受けた(1-6)。と同時に、主人の妻からのしつこい誘惑も受けた(7)。しかし、ヨセフは、彼女の誘惑を断固拒否し続けた(8)。しかし、そのような、ヨセフの忠誠にもかかわらず、主人はヨセフを誤解し、彼を投獄してしまう(19-20)。ヨセフの主人ポティファルへの忠誠は、顧みられることはなかった。信頼関係を築こうとしても、時として誤解を受けて関係が損なわれることは今日の私たちの人間関係にもしばしば起こることである。
しかし、ヨセフは投獄されても、その監獄の中でも、監獄の長に忠実に仕えることによって、監獄の長から絶大な信任を受けている(21-23)。誠実を尽くし続けていくヨセフの姿に学ばなくてはならない。
なぜ、ヨセフは人を恨み、自暴自棄になるところなのに、なおも人に忠誠を尽くしていくことができたのだろうか。それは、ヨセフの主なる神への忠誠、つまり、正しくさばかれるお方に対する忠誠にあるのであろう(9後半)。もう一つ注目したいことは、「主がヨセフとともにおられた」ということが、繰り返し出てくることである(2、3、21、23)。これは、ヨセフの主に対する忠誠(愛と信頼)よりも、主のヨセフに対する誠実(愛と恵み)の方が勝っていたと言える。どんなに失望させらえることが起こっても、主はヨセフを見捨ててはおられなかったのである。
 主は誠実に生きる者のただ中に共におらえることを覚えよう。

主題 <ユダの罪>

聖書箇所 創世記 38章    (2012年 3月28日)

今日のみことば「ユダはこれを見定めて言った。「あの女は私よりも正しい。私が彼女にわが子シェラを与えなかったことによるものだ。」それで彼は再び彼女を知ろうとはしなかった。」(26)
 ヨセフ物語が始まって、すぐに38章では、ヨセフの兄ユダについてあえて挿入されるように記されている。
 ヨセフの事件以降、ユダは家族から離れてヒラという地に天幕を張って移り住んでいく。そこで、ユダはカナン人のシュアの娘を妻とした。ユダもカナン人との結婚によって神の御心に沿うことをしなかったことが言われている。このことは、やがてさまざまな問題の始まりとなっていく。
 ユダとカナン人シュアの娘との間に、三人の息子たちが与えられるが、そのうちの長男エル、オナンが続けて死んでいく。この死の原因について詳しく知ることができないが、どちらも結婚関係の文脈の中で、「主を怒らせた」(7、10)とあることから日常的に性的に非常に重い罪を犯していたということが伺える。
 ユダ自身も息子の嫁タマルを遊女と勘違いし関係を持ってしまった。子孫を残そうとしたことであったが、タマルはユダをだますことになり、ユダは自分の犯したことを言っときは隠そうとする(20)。最終的には、ユダは自分の犯した罪を認め(26)、タマルはみごもって双子、ペレツとゼラフを生んだ。
 これら一連のユダに関する記述は恥ずべき歴史であると思われるが、聖書は克明に記録している。また、驚くべきは、イエス・キリストの系図の中に、「ペレツ」と「ゼラフ」の名前を見つける。そして、ペレツの子孫が主の祝福を受けていくことになっている(ルツ4:12)。
 恥ずべき歴史の中に主の顧みとあわれみの歴史もあるのである。霊的感覚を失ったと思われるユダであるが、しかし、主はそのような者にも導き続けて下さったという神の恩寵を改めて覚えたい。

主題 <ヨセフの見た夢と兄弟たちからのねたみ> 

聖書箇所 創世記 37章    (2012年 3月27日)

今日のみことば「兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた」(11)

 37章からはヤコブの歴史として、ヤコブの権威のもとにある「ヨセフ物語」が始まっている。
 ヤコブはヨセフを愛し、その愛は他の兄弟たちのねたみをもたらすほどの偏愛であったことが言われている(4)。
 また、ヨセフは自分の見た夢について兄弟たちについて話すが、その夢について話すことば使いなどでも他の兄弟から憎しみをかうようなことをしていたことが言われている(8)。
 このようなヨセフの振る舞いもあって、他の兄弟たちは憎しみから、殺意へと発展していく。兄弟同士で憎しみから殺意へと発展していったカインとアベルの事件を思い起こさせられる。
 しかし、ヨセフの場合、兄ルベン、ユダのとりなしによって、殺されることなく、結果的にはイシュマエル人に売られていくこととなった(26~27)。殺されることはなかったが、ヨセフの存在を消そうとしたことは殺したのと同じようなことで、ヤコブは非常に泣き悲しんだ(34)。
 一連の兄弟のうちに根強くあった「ねたみ」について考えると、人間関係の緊密な関係の中に「ねたみ」は起こってくることが分かる。それは今日の私たちも注意しなくてはならない。
 また、このような兄弟間におこった「ねたみ」の中にも神は背後に働かれていたことを後に知ることになる。ヤコブはヨセフの見た夢について思いめぐらしていたように(11)、さまざまな出来事の中にも主の御心があることを覚えなくてはならない。一時の激する感情に流されるのではなく、主の御心はどこにあるのかを静まって祈り求めていくことを大切にしなくてはならない。

主題 <エサウの歴史> 

聖書箇所 創世記 36章    (2012年 3月26日)

今日のみことば「これはエサウ、すなわちエドムの歴史である」(1)

  36章はヤコブの兄、エサウの歴史について、その子孫について記されている。
 エサウはカナン出身の妻をめとった。「アダ」、「オホリバマ」(2)の名前があげられているが、このエサウの妻として言われているが、以前に記されていたエサウの妻の名「エフディテ」、「バセマテ」(26:34)と異なっている。これはエサウがカナン出身の複数の妻をめとっていたということを示している。「カナン人の娘の中から・・・妻をめとってはならない。」(24:3、28:1)という父祖たちの戒めに従わなかったことが分かる。
 19節「これらはエサウ、すなわちエドムの子で、彼らの首長である。」とあり、エサウに続く子孫たちは「エドム人」となったことが言われている。このエドム人はセイルの山地を拠点とし、もともとは首長制度によって統治していたようであるが、イスラエルより先に王制をとるようになったようである(31)。エドム人が発展し力を持つようになっていったことを示している。
 しかし、どうしてこのような詳しいエドム人についての歴史が記されているのだろうか。それはかつてアブラハムの歴史に並び、女奴隷の子イシュマエルの歴史が挿入されていたのと同じである。エサウの子孫エドム人が、ヤコブの子孫イスラエル人の歴史の中で、どのように取り扱われてきたかを示そうとされていると取ることが出来る。神の御前に従順に生きた民族、そのように歩まなかった民族のそれぞれの歩みの違いがいかに大きいかを示そうとしている。
 私たちは、信仰によって神の民とされていることを覚え、主の従う民として、この地上の歴史を刻む者とさせて頂きたいと思います。

主題 <信仰の原点>

聖書箇所 創世記 35章    (2012年 3月25日)

今日のみことば「神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」」 (1)

 エサウとの和解の後、ヤコブの人生は好転するかに見えたが、シェケムでの事件は悲しみと復讐の連鎖への恐れとで、いっきに先が見えない状況となってしまった。
 そのようなヤコブに対して、神はべテルに上っていくように示されました(1)。兄エサウの住むセイルでもなければ、シェケムでもなく、べテルへと導いて、そこで「あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」と言われました。
 べテルはかつてヤコブが兄エサウの怒りを逃れるために、一人旅立ち、その旅路の中、孤独に石を枕にして寝るしかなかったヤコブに、神の臨在と旅の守りを約束された、言えばまさにヤコブが神と出会い、信仰を持った原点の場所でありました。
 ヤコブはシェケムの事件以降、無気力になっていたかもしれない。そのようなヤコブは「私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」(3)と言い、さまざまな異国の神々を捨て、奮い立って出かけていきました。
 時として迷い、悩み、どうしたら良いか導きを人は必要とする時がある。ヤコブもさまざまな異国の神々にも触れて、頼ってしまっていた弱さもあったことが分かる。でも、ヤコブにはっきりと語られ、導こうとされている神の存在を思い出し、再び、信仰の原点であるべテルへと向かったのでした。
 あなたの信仰の原点はいつ、どこからだったのでしょうか?主の導きを絶えず求めていく者とならせて頂きたいと思います。

主題<シェケムでの事件から考えること>

聖書箇所 創世記 34章    (2012年 3月24日)

今日のみことば「ただ次の条件であなたがたに同意しましょう。それは、あなたがたの男子がみな、割礼を受けて、私たちと同じようになることです。」(15)

 エサウと和解したヤコブはエサウの住むセイルの地へと行かず、シェケムへ向かった。このシェケムの地でヤコブの娘ディナが辱められるという事件が起こった。シェケムのハモルとの話し合いで一端は平和的解決を見たように思うが、ディナの兄たちによる復讐の策略が背後に隠され、さらなる悲劇が続いた。
 この一連の事件の中で、一つは割礼を施すことを求めたことであるが、割礼の意味を語ることなく、ただ割礼を受けるように勧めているところに、信仰なき信仰となり、形骸化してしまっていたのではないかということが問われるように思われる。単に、割礼を施すことが一つの民となるという言い方は、以外にも私たちが形式、形だけが先にいって、信仰が問われないならば問題である。
 もう一つは復讐ということである。割礼を施したヒビ人を襲撃し、報復したことが、ヤコブの本意ではなかったが、したことに対しての責任を取るということよりも、さらなる復讐を恐れ、悔い改める姿勢がヤコブに見られなかったことは残念なことであったと思う。復讐に続く、復讐への恐れ、この連鎖は今の時代にも通じている。復讐から解決を見出すことは決してできないことを思わされるのである。
 繰り返される悲劇が続かないように、執成しの必要を覚え、悔い改め、赦すということができるための備えのために祈らなくてはならない。