2012年4月 2日 (月)

主題 <和解の備え>

聖書箇所 創世記 33章    (2012年 3月23日)

今日のみことば「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。 エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。」(3~4)

もものつがいをはずされたヤコブは、足を引きずっていた。しかし、自我を打ち砕かれたヤコブは、エサウヘの恐れが取り払われており、エサウとの再会の準備が整っていたことが分かる。
ヤコブは足を引きずりつつも、七回も地にひれ伏しおじぎをした。潔くエサウの前に出ていった。それを見た兄は、過去の欺きの行為を忘れ、走ってきて、弟をいだき、首に抱きついて口づけし、二人は泣いたのであった。真実の和解は潔く、謝罪していくことなくしてはあり得ないことを痛感させられるのではないだろうか。
贈り物を差し出したヤコブに対し、兄は一旦その申し出を断った(9)。エサウも大いに富んでいたのである(9)。もし、エサウが長子の特権と父イサクの祝福を失った結果、たとえば貧困にあえぎ続けていたとすれば、失ったものを忘れることはできず、ヤコブに対する憎悪を消すことは難しかっただろう。神はヤコブの手の届かないところで、和解のために働かれておられたと言える。
ヤコブは兄エサウとの和解のために備えていくが、実は、神ご自身によって、ヤコブ自身が潔く、真実を語ることが出来るように導かれ、さらには背後で、神ご自身がエサウにも働かれて、和解の備えをなしていてくださっていた。
神の備えて下さっている和解の豊かさを覚え、私たちも和解の身を結ぶ者となれるように祈りましょう

主題 <格闘の祈り> 

聖書箇所 創世記 32章    (2012年 3月22日)

今日のみことば「するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」」(26)

 帰郷を目前にして、兄エサウが報復するという恐れは、ヤコブの心から消えなかった。そこで多くの家畜の贈り物攻勢で、兄の心をなだめようとした。
しかし、それでも恐れをもっていたヤコブは家族のものたちを先に行かせ、ヤコブは一人残り、そこでヤコブは「ある人」と格闘する。ヤコブは「ある人」に祝福してくださいと求め、その求めは執拗なまでに必死な求めとなっていたことが分かる。この願い求めていく格闘は今日的言えば祈りを指していると言える。ヤコブは神と向き合うことが重要であり、祈っていく必要があったのである。この格闘は夜を徹して行われた。
「ある人」はヤコブの執拗なまでの求めに応えられる。ヤコブは「その人」から名を問われ、私はヤコブ(人を押しのける者)と自らの状態を告白する。それに対し、「ある人」は彼を、(神の祝福を受ける)イスラエルと改名した(28)。神の御前で勝つとは、自分の罪を認め、悔い改め、自分の弱さを認め、神の御思いのように、私をお使いくださいとゆだねていくところに勝利があることが分かる。ヤコブはこの時、もものつがいがはずれることになるが、これはまさにヤコブが砕かれたことを意味し、新たなヤコブに変えられていったことを意味している。
祈りは人を変え、新たな主の祝福にあずかっていく時となるということを教えられる。まず、何よりも祈りに徹する者とならせて頂きたいと思います。

主題 <神の介入>

聖書箇所 創世記 31章    (2012年 3月21日)

今日のみことば「主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」」(3)

 ヤコブが富み栄えるのを見て、ラバンの息子たちは「われわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と言った(1)。ラバンの側の、ヤコブに対するねたみ、不信感が決定的になったのである。一方ヤコブも、欺き、約束した報酬を何度も変えたラバンのやり方に、不信感を募らせていた(7)。
このままの関係を続けるわけにはいかない。ヤコブとラバンとの関係は極みにまで達してきていたことが分かる。この時、いよいよ神が介入され、ヤコブに帰郷を促すことばがあった(3)。神の時、タイミングは絶妙であることを思わされる。
帰郷に際し、ヤコブはラバンのもとを逃げるように出ていき、ラバンと激しい口論となっていく(26~42)。その口論の内容は20年の間鬱積した思いを互いにぶつけていくもので、お互いが親子関係にあることさえ感じられないものだった。長い間、共に生活しながらも関係が深まることのなかった悲しさを感じさせられるものがある。
今日の箇所から考えさせられることは、ラバンも、ヤコブもお互いに相手が態度を変えることを願っていたというところにあるように思われるのである。そのような思いがいつしか猜疑心になって、相手も攻めていくものとなってしまっていたように思うのである。
私たちの人間関係はどうだろうか。人を、相手が変わらない、変えようとする思いではなく、まずは自らを顧み、自分から変わっていくことが必要であるという認識をもっていくことが大切である。
いずれにしても、ヤコブは神の導きのうちに新たな出発を迎え、旅立つ。主の導きの前に従順に歩ませて頂けるよう祈ろう。

主題 <知恵を用いて誠実に生きることを養うこと>

聖書箇所 創世記 30章    (2012年 3月20日)

今日のみことば「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」(43)

 ラバンのもとでの14年間はかつてヤコブが経験したことのない試練、自らの愚かさをとりあつかわれる時となった。しかし、この経験はヤコブを少しずつ変えていくこととなり、再び主の祝福を受け継ぐ者として祝福されていくようになる。
 ヤコブの帰郷の願いには、ラバンから独立し、妻子と財産を自分のものにしたいという思いも含まれていた。ラバンは自らの財産が少なくなることを恐れるが、しかし、ヤコブはそれに反して財産は増えていき、ラバンは、自らがヤコブの背後におられる主の祝福を受け、財産が飛躍的に増加したことを認めざるを得なかった。ヤコブは欺きを経験しながらもが、忠実に働いたのである。この時、ヤコブは様々な知恵を用いた(37-40)。その知恵が功を奏し、「弱いのはラバンのものとなり、強いのはヤコブのものとなった」(42)とある。ヤコブは、大いに富む者となった(43)。
 今日の私たちも、ヤコブのように、確執のある人間関係の中で、信仰者は生きなければならないときがある。しかし、ヤコブのように、欺きに対して欺きで返すのではなく、主が共におられるのならば、確執の相手に仕える知恵と力が与えられる。いつの日かその者が、あなたの背後におられる神を認めるかもしれない。この時は、まだ自分の才覚や勤勉さが前面に出る「ヤコブ」(押しのける者)であった。しかし、主はあわれみをもってヤコブに御手のわざを経験させ、主の円熟に導こうとされていたと見える。
 神の見えざる御手が今、私たちにも及んでいることを覚えたいと思います。

主題 <だまされた痛みを知るヤコブ> 

聖書箇所 創世記 29章   (2012年 3月 19日)

今日のみことば「朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。」」(25)

 家族と離れ、ヤコブは一人旅を続け、やっと叔父ラバンのもとに辿り着いた。ヤコブはラバンに迎えられ安堵し、さらには娘のラケル好意を寄せていくようになる。
 しかし、ラバンはヤコブと共に過ごしていくうちに、ヤコブが娘ラケルに好意を寄せていることを利用しようと計画していくようになる。
 ラバンはヤコブに娘のラケルと結婚するために、ヤコブがラバンの下で7年間働くことを約束した。愛の力は強い。彼には七年が数日のように思われた(20)。
約束の通り、7年間を経て、ラケルとの婚宴を終え、翌朝起きると、隣にいたのは姉のレアであった。ラバンはラケルを妻とするためにさらに7年働くように言った。これはラバンの計略であった。ヤコブはこの提案を受け入れるしかなかった(30)。
かつて、エサウやイサクを欺いた者が、ラバンに欺かれたのである。ヤコブにとっては、欺かれる痛み、自らの愚かさを経験する、後半の七年であっただろう。
今日、自分の利益優先的な考え方がしばしば人を欺き、傷つけてしまっていることがあるのではないだろうか。人をだます、欺くことの痛みを知らないでしまっていることはないだろうか。私たちの人間関係が欺きに終わらないように、誠実な人間関係を築いていけるように祈りましょう。

2012年3月20日 (火)

主題 <石の枕から見た約束>

聖書箇所 創世記 28章    (2012年 3月18日)

今日のみことば「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」 (15)

 イサクはヤコブを祝福されたことが、エサウの怒りをかうこととなったヤコブの身を案じて、母リベカは母の故郷パダン・アラムへ行くようにとヤコブを送り出した。
 ヤコブの計算ではこのままイサクから祝福を受け継ぎ、さらなる豊かな歩みを期待していただろう。しかし、ヤコブのエサウに対する悪賢さ、欺きは怒りを生み、結果的には住み慣れた地を離れなくてはならなくなってしまった。
 すべてはうまくいっているかに見えた。しかし、人間的なはかりごと、それも人を欺いてまで得ようとした結果は、故郷を離れ、家族を離れ、一人追われるように孤独な旅立ちをしなければならなくなってしまったのだった。
 失意の中、石で枕し休むしかなかった中、ヤコブは一つの不思議な光景を眼にした。それは一つのはしごが天の頂きに届き、神の使いが上り下りしているというものだった(12)。そして、神はヤコブに今回の旅路にあっても守り、再び、故郷の地を踏むことができるようにされること、決して見捨てられないとの約束を頂いた。ヤコブはこの地をべテル(神の家という意味)と名づけられた。このべテルは今後、ヤコブの人生において重要な地となり、いつも人生の分岐点となっていく。
 今回のことはヤコブ自身の問題によって生まれたと言えるが、しかし、そのようなヤコブに神は憐れみ深く、顧みてくださっていた。失望の中にも希望を与えられる主をあがめよう。

主題<祝福を失ったエサウ> 

聖書箇所 創世記 27章    (2012年 3月17日)

今日のみことば「エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。」(38)

 エサウは狩りをし獲物を持ち帰りイサクに貢献するも、ヘテ人の二人の女性を妻として迎えたことは、悩みの種になっていた(26:35)。母のリベカは弟ヤコブに兄エサウになりすまし、父イサクより祝福を受けるように勧める。しかし、その方法は偽りであり、正当とはとても言えない、欺きであった。結果的にイサクはエサウになりすましたヤコブを祝福された。
 何も知らないで野から帰ってきたエサウはヤコブが自分に成りすまして、父イサクから祝福を受けてしまったことを知り、自分も祝福して欲しいと懇願するが、何一つ残ってないと告げられ、エサウは声をあげて泣いた(38)。
 エサウはかつて長子の権利をヤコブに取られ、さらには今回のように自分になりすまし、父からの祝福を奪われるように取られてしまった。このことにより、エサウはヤコブに対し憎しみが生まれ、殺意を持つようになった。
 ヤコブが人を欺いて祝福を受けようとしたことも問題であるが、エサウにも長子の権利を軽んじてしまったことも問題であったと言える。問題に問題が積み重なって、殺意が生まれる事態になった。それは、今日に現代においても人間関係のもつれ、問題が積み重なって、起こってくる憎しみからの殺人事件を良く見聞きするのと同じものがあることを感じさせられる。
 そこで、何が重要なのかを見失い、あるいは取り違えてしまったことが悲劇をもたらしてしまうことがあることを思わされる。確認したいことは神から与えられるものの価値を再確認しなくてはならない。

主題 <主の祝福を基として>

聖書箇所 創世記 26章    (2012年 3月16日)

今日のみことば「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。」(12)

 イサクはかつてアブラハムも滞在したゲラルの地に留まるように命じられた。このゲラルの地を治めるアビメレク王の前にアブラハムは自分の身を守るため、妻サラを妹と偽った失敗をしたが、イサクも同様に、妻リベカを妹と偽った。繰り返される失敗にあきれる思いを持つかもしれない。しかし、これが人間の弱さであり、罪深さであることを明らかにしていると言える。何度も同じ様に繰り返される愚かしさ。でも、再三の失敗の中にも、悔い改めの機会が備えられていることは恵みである。信仰は、繰り返してしまう失敗の中にもその経験が成長させてくれるというのも事実である。神は、イサクの失敗にも関わらず、祝福されていく(12)。
 しばらくして、井戸のことでゲラルの人々としばしば争いが起こるようになった。イサクは争いを避けて移動し続け、レホボテへと導かれ、さらなる祝福を頂くようになった。力が増していくイサクに脅威を感じたアビメレクはイサクと平和協定を結ぼうとしてイサクのもとへやって来た。イサクはこの申し出を受け入れ契約する。ゲラルを負われるようにして出て着たにも関わらず、イサクは豊かに祝福を受けてきた証拠であった。
 イサクもかつての父アブラハムと同じような失敗をくり返しながら、しかし、本当に祝福を与えて下さるのは、人によるのではなく、力によるのでもなく、ただ、神のみが祝福を与えて下さるということを一つ一つの事件が起こる度に、学び教えられ導かれてきたと言えよう。  私たちも主への信頼、そして、祝福の基を主への信仰の上に、与えられていくということを確信して歩む者とならせて頂きたいと思います。

主題 <長子の権利> 

聖書箇所 創世記 25章    (2012年 3月15日)

今日のみことば「ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」(34)

 アブラハムは全財産をイサクに与え、175歳で地上の生涯を終え、妻サラが葬られたマクペラのほら穴に葬られた。そして、イサクがアブラハムに与えられた約束の継承者として歴史が刻まれていく。
 イサクとリベカのうちにまだ子供が与えられないでいました。かつて父アブラハムが経験したかのようなことをイサクも経験する。しかし、イサクはリベカのせいにするのではなく、むしろリベカを思い、自分のことのように主に祈り嘆願し続けた。祈り続けて20年の歳月が流れた時、エサウとヤコブの双子が与えられたのだった。
 この二人は、兄弟でありながら、その性格の違いがはっきり見られるほどの個性の違いが見られた。エサウは巧みな猟師となり、ヤコブは天幕に住む人となった。
 ある時、エサウが狩りから帰ってきたが、その疲れと飢えから、ヤコブが煮ていたレンズ豆の煮物と引き換えに、長子の権利を交換してしまうということが起こる。たかが食べ物で、相続権、家長となる長子の権利を引き換えてしまうエサウもエサウだが、このことを言い迫るヤコブの悪賢さも問題であった。このことは、兄弟に今後大きな亀裂を生むこととなる。
 注目したいことは長子の権利を軽蔑したエサウである。エサウは「それが何になろうか」と言って、神の祝福を受け継いでいく恵みを軽んじてしまいました。今は特段何も変わりがないように見えて、しかし、神の祝福を受け継ぐということがとても重要であることが分かりませんでした。今日、信仰を継承していくということはこの恵みを受け継ぐという意味で重要なことであることを教えてくれています。

主題 <このことは主から出たことですから>

聖書箇所 創世記 24章    (2012年 3月14日)

今日のみことば「するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。」(50)

 アブラハムも年を重ね老人となり、いよいよ跡継ぎのイサクへと移っていく。アブラハムはイサクのために結婚相手を探しに、アブラハムの故郷の地へしもべを派遣した。
 この途方もない人々から結婚相手を探し出すということは並みの事ではないことがしもべの祈りから伺える(12~14)。しかし、このしもべの祈りがすぐさまイサクの結婚相手となるリベカを見出すこととなった。しもべは、主の鮮やかなまでの導きの確かさに確信し、主を礼拝している(26)。
 sらに、しもべはリベカの家族のもとへと出向き、事の次第を伝え、イサクとの結婚の承諾して頂くために説明していく。本来なら、会ったこともない相手であるが、しかし、話の中でアブラハムの兄弟ナホルの孫娘であるということも分かり、不思議な出会いに導かれていることが証しされていく。そして、リベカの父ベトエルと兄ラバンはしもべの話と申し出を受け入れ「このことは主から出たことですから」(50)と言い、神の導きを受け入れていく姿勢があったことが分かる。リベカ本人も「はい。まいります。」(58)と答え、イサクのもとへと行くことを決断している。
 いずれも不思議なまでの導きの中で、速やかに事が運んでいっている。このようなことは稀のようなことに思われるが、しかし、主のみこころであるならば、それは不思議なまでに迅速に事が動くことがある例の一つと言える。何よりも、このよな一連の導きに際し、再三、主をあがめ、礼拝をささげているしもべの姿にその信仰の導きとは何かを教えてくれているように思わされるのである。