2011年11月 3日 (木)

主題 <キリストのかおり> 

聖書箇所 コリント人への手紙第二 2章(2011年10月26日)

今日のみことば「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」 (15)

 パウロはこの第二の手紙を書き送った動機について1~4節で語っている。それは、パウロによる手紙や訪問によりコリント教会の信徒たちを指導していくことが、かえって悲しみと不信感を募らせる結果となってしまったことを悲しみ、パウロが厳しく指摘したのは「あふれるばかりの愛」(4)によるのだと弁明している。過ちや問題を見過ごすことが本当の解決にはならない。時としては、過ちや問題から目をそらさずに向き合い、悔い改めをもって前進していくことが必要なのである。正しく理解していくためにも、助言を与え、戒めて指導してくれる人の存在は、その時は痛みが伴ったとしても、しかし、振り返ればそれは有益であったと感じることの方が多いのではないでしょうか。パウロは愛をもって、時には厳しく対処していくこととなったことをコリントの教会の人々に伝えたのでした。
問題を隠すのではなく、悔い改めをもって向き合い、対処していくこと、さらには、この問題を共有する者たちも互いに受け入れ合い、赦し合うことがさらなる益となるということを覚えたいと思います(7、10)。
パウロは宣教の働きやコリント教会とのかかわりの中で失意、落胆している姿が見られた(12~13)。しかし、パウロはキリストにある勝利に導かれているという思いに馳せて、希望をもって歩もうとしていたことを覚えたい(14)。そして、パウロは「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」(15)という自覚をもって働き続けていたことを私たちも改めて覚えたいと思います。
主のとりあつかいの中に、罪を悔い改めていく、痛み、悲しみを経験するも、キリストにある交わり、教会の交わりの中で、さらに赦された者として生かされている恵みを感じつつ、主にある成長を頂いて歩むことが出来るように、人々の前にキリストにある者として証しの伴った歩みが出来るように祈っていきましょう。

主題 <苦しみを耐え抜く力を与えられる慰めの神> 

聖書箇所 コリント人への手紙第二 1章(2011年10月25日)

今日のみことば「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(4)

パウロはコリント人への第一の手紙を書き送った後、コリントに短い期間滞在し、さまざまな問題の解決のために働きかけるが、良い解決が与えられず、その後、悲しみの中で書き送った手紙(2:4、現在は失われている手紙となっている)を送るが、しかし、思ったほどの改善がなされなかった。そのような経過を経て、この第二の手紙を書き送りました。
 パウロはまず、コリントの教会の信徒たちにパウロの会った苦しみについて報告しました(8~9)。それは、死を覚悟するほどのことであったことをパウロは語っているが、これは使徒の働き19章23節以降に記されているデメテリオという銀細工人のパウロに対する批判を発端に、ついにはエペソの町の劇場に群衆が押し寄せるほどの大混乱となったことが記されている。
そのような大きな迫害を経験したパウロであるが、神の助けにより救われたことを報告している(10)。そして、将来にわたって主に希望をおいて宣教の働きに出ていたことを伝えています(10)。そのようにパウロが言えた理由は、「神は苦しみのときに、私たちを慰めてくださいます。」(4)と言うように、非常に困難な中にあっても、神は慰めてくださる。その慰めは、苦難に耐え抜く力を与えてくださるという慰めに満ちた神が臨まれるからであることをパウロは教えられました(6)。
パウロ自身、非常に大きな苦しみを通されましたが、なおコリントの教会の信徒たちにも及びかねない迫害を覚え、その苦しみの中に励まし、前進していくように祈るようにこの手紙を書き送ったことが伺えるのである。ここに、パウロの牧会者として配慮ある人であったことを見ることが出来ます。おそらく、コリントの教会の人々との関係に多少のギクシャクする関係があったと思われるが、しかし、パウロはコリントの教会の信徒の方々との協力関係を大切にし、コリントの教会の信徒たちのために最善の助言を与え続け、教会が建て上げられることを祈っていた姿に学びたいと思います。

主題 <いっさいを愛をもって行う> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一16章(2011年10月24日)

今日のみことば「いっさいのことを愛をもって行いなさい。」(14)

昨日の箇所において「キリストは勝利を与えてくださいましたとありました。ですから、いつも主のわざに励みなさい、労苦は主にあって、無駄ではないから(15;57-58)」と、パウロは実際的に励まし、さらに心の行き届いた牧会者として、ここで具体的な指示を与えています。
1,お金のことに配慮している(1~4)
 主を信じるようになったギリシャ人やユダヤ人のクリスチャンが信仰のために迫害と飢餓のために困窮しているので、実際的な助けを与えて欲しいと願っています。
2,時間のことに配慮している(5~9)
 冬が近づいて、多くの仕事をしなければならないマケドニヤや、アジヤの諸教会は、みなパウロの配慮を必要としていました。その中で奉仕の要請と機会が適切に調整されるように綿密な計画を作っています。
3,人々の事を配慮している(10~20)
 人々からの友情、忠実さを心得、その人達の熱心な奉仕について高く評価しています。そして、彼らの評判を守ること、彼らの計画への支持、主のための働きについての評価と、その責任をもって人々へ服従すすめなどをしました。
 キリスト教会の働きは、一人では出来ません。愛による協力者が必要です。私たち一人ひとりが自分だけではなく、協力者となりたいと心から願うべきです。

主題 <キリストへの希望> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一15章(2011年10月23日)

今日のみことば「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れなものです。」(19)

 パウロは、復活という大きな主題に3つの角度から述べています。
1,歴史的(1~7)
 イエスは私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられた。これは神話や作り話ではなく、確固たる歴史上の事実で何百人もの人達によって証言されていることを証言します。
2,個人的(8~11)
 パウロは、この主との個人的な出会いを経験していました。それによって歴史的事実はパウロの経験の上でも事実となったのです。
 私たち自身はどうでしょうか。
3,教理的(12~19)
 復活はキリスト教信仰の礎石です。復活がなかったら、
 1、私たちの信仰は空虚で無意味なものとなってしまいます。
 2、私たちの宣教は無駄なものとなってしまいます。
 3、私たちの証しは偽りとなってしまいます。
 4、私たちの罪は許されていないこととなってしまいます。
 5、私たちのよみがえりもなくなってしまいます。
ですから、すべての人の中で最も哀れむべきものとなってしまうのです。
今日一日、主のよみがえりの力を信じ、経験しつつ生きていきましょう。

主題 <愛を追い求める>

聖書箇所 コリント人への手紙第一14章(2011年10月22日)

今日のみことば「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」(1)

13章で愛がなければ一切は無益だ、妨げになる、邪魔だと語ってきた。そして当時のコリント教会にあったのは異言の問題でした。聖霊によって与えられる賜物としての重要な、愛をこそ追い求めなくてはならないというのです。
「あなた方は御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。」(13)と霊の賜物が教会の益のために用いられることです。だれも説き明かす人がいなければ、異言を話すことは無駄であると言っています。御霊の賜物は教会の徳を高めるためにあるからです。異言が自分を高め、特殊な信仰経験を見せ他の人を当惑させ混乱におとしいれる危険がありました。
 徳を高めるとは、キリストを知り、自らを成長させ、人々にキリストがどの様なお方であるかを知らせることです。聞く人の徳を高めることができないことはしないのです。教会において、自分だけ分かる難しいことば、宗教用語を用いず、わかりやすく証しし、祈り、賛美して共に神様を礼拝したいものです。
「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」(33)神の霊的な賜物を与える神は秩序と平和の神なのです。私たちはこの方に従うとき、集まりは整えられ、前進していきます。突出した霊の働きや賜物を求めるよりも、あらゆる祝福の源泉である神を慕い求めることによってこそ、調和のあるクリスチャンに成長する事ができるのです。

主題 <いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一13章(2011年10月21日)

今日のみことば「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(13)

 パウロは愛を、聖霊なる神の賜物であると語っている。クリスチャンの愛は倫理や修行によって生まれるものではなく、神の賜物だという。13章においての愛の教えは、キリスト教の愛がどんなものであるのかを明らかにしている。
まず初めの3節では「愛がないなら」と言う繰り返しでつづられている。どんなに素晴らしいと見えること、コリント教会で尊重されていた異言や預言、あらゆる奥義、知識、山を動かすほどの信仰があっても、自分の財産を貧しい人に施し、自分の体を焼かれるために引き渡しても、愛がなければ何の値打ちもないと言っている。
そして、真の愛はどのようなものかを4節から語っている。愛は寛容である。15の愛の姿が私の中に形つくられるものなのです。決して自分と別なところで思考したり、想像を描いたり、誰かの中に愛があることを期待したりすることではない。また自分にはこうした愛に生きることはないのだと思うことでもない。
聖霊によって神の愛が私たちの心の中に注がれていることをまず深く信じることです(ローマ人への手紙5;5)。聖霊は喜んで私たちの心の中に恵みを注ごうとしています。
“神の愛”によって救われ、内には聖霊なる神が内住して下さっている。だから、本来の私たちには愛はないが、神と共に歩み、神に愛を求めるなら、神から賜物として愛をいただくことができるのである。そして、今度は愛を与えることができるようになるのである。教会の交わりの中で、神の愛をお互いに分け合うことができたら幸いである。実現していく姿を今日は思い描き、進み始めよう。

主題 <聖霊によって歩む>

聖書箇所 コリント人への手紙第一12章(2011年10月20日)

今日のみことば「神の御霊によって語るものはだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(3)

パウロは「ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」と強調している。
 一つは、2節は生まれながらの状態では偶像礼拝に走らざるを得ないこと。二つめは、3節の生ける神を礼拝するようになるのは聖霊である神の力によるということである。
 自分の力で決心して神を信じ、自力で信仰に入ることができると思いがちである。また、自分の力で伝道することによって相手に信仰を持たせることができると思いやすい。しかし、神を信じる信仰はすべて神が与えて下さる賜物なのである。
エペソ2:8「あなたがたは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とある。そして、信仰の原動力が聖霊なる神の賜物であるだけでなく、信仰生活すべての原動力は神からくるものなのである。
 クリスチャンすべては、神からの賜物を受けている。それは、7節にある「みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです」。仕えること、祈ること、励ますこと…私たちに与えられている賜物を、教会の中で「みなの益となるために」用いていきたい。
27節には「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」と教え、体にはそれぞれ多くの部分があり、異なった働きをするように、教会にも同じような性質がある。
 1,一致(13)2,多様性(14)3,活動がなされる。体と同様に、教会には主要な目的がある。それは神の栄光のため、神の国を広める助けとなる道具として立てられている。キリストの体の一部として、全体のことを考え、自分のすべきことをしていこう。

主題 <パウロをみならおう>

聖書箇所 コリント人への手紙第一11章(2011年10月19日)

今日のみことば「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」 (1)

コリントでは、公の礼拝では女性は頭に布をかぶる習慣があった。それは邪悪に満ちた都市コリントでは身を守るためにも役立つものであった。かぶりものをしない女性は、大抵が神殿娼婦であったり、髪を剃っているのは奴隷か、罰をうけた女性だったからである。
 しかし、自由を求める婦人たちは、異教の女預言者のまねをして、こうこつ状態で預言をしてかぶりものをしなかった。こうした当時の習慣の中で原則を教えているのです。
1,神の創造の業には秩序があること、私たちは神の造られた枠組みの中で活動し、神のパターンによってお互いが建てるべきである。
2,創造の秩序を現実の生活に守ることは、圧力によってできないことである。それは調和ある、相互依存によって実現すべきである。
  その原則を特に男女の関係にあてはめている。(11、12)「主にあって」すべてを変える力を持っている。
3,私たちはいつも主のことを思い、主の栄光を多くの人に知らせるためにできることがある。
   神は秩序の神であるから、礼拝は秩序を守るためにおごそかに行うべきなのである。 
「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(25)最初の主の晩餐のことを想起し、意義を知り、ふさわしい行動をするように戒めたのである。主の晩餐は、第一に、主の犠牲と愛を記念するため(24、25)第二に、しるし(26)であり、私たちが主を愛し、命令に従うことを示す方法である。

主題 <試練に耐える道> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一10章(2011年10月18日)

今日のみことば「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練にあわせるあわせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練と共に脱出の道も備えて下さいます。」(13)

イスラエルの人々がエジプトから救い出されたということは、すばらしい経験であった。神は、紅海を分けて海を陸のように歩くように渡らせ、日ごとに食物を与え、40年間彼らを荒野で導かれた。彼らはすばらしい特権と機会を与えられたのである。しかし、それにもかかわらず、彼らは罪に陥った。偶像礼拝し、不道徳なことをし、不信仰の罪を犯し、つぶやいたのである。特につぶやきの心は聖書の中では最悪の罪の部類に入れられる。荒野を旅するイスラエルの民は、繰り返し彼らの指導者につぶやくことによって、神に罪を犯した。その結果、滅ぼす者に滅ぼされてしまうのである。
 この歴史から学び、警告として歩むべきであることを、パウロはコリントの教会の人々に、また私たちに教えている。
 そして、神は試練の中で真実な方であるから、私たちが倒れることがないように支えてくださると教える。耐えられなくなったら、逃れるべき出口を備えてくださるのだ、と励ましている。
 33節では、「私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。」とパウロはこの章で、偶像礼拝にささげられた肉を食べるべきか、否かという問題に帰っている。クリスチャンは、自分の自由だけではなく、他の人がそれによってつまずくおそれのある時、気を配ることを決して忘れてはならないのである。
 私たちの生活の原則は、「すべて神の栄光をあらわすようにする」ということである。神の栄光があらわされるため、より多くの人が救われるために、自分の利益を求めず、他の人のために、神のために生きていきたい。

主題 <福音のために共有する生活> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一 9章(2011年10月17日)

今日のみことば「同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。」(14)

主の奉仕者への正しい報い方を教えております。むかし、レビ人たちは、十二部族の中から選ばれて、神の奉仕のために専念するように取り分けられ、ほかのイスラエルの民はおのおの十分の一をもって支えたのである。
 同じように、新約聖書の時代には福音に奉仕する者たちを支えることが大切であり、こうして教会全体が整えられるようになるためなのです。一人一人が、神に対して十分の一をささげることが、ひいては神の栄光のために、教会の素晴らしい発展へとつながってゆく。
 主のために全生涯をささげて労する働き人についての記述はたくさんあります。なしうる限りに尊敬と愛を用いるように、というのである。またその人が奉仕を嘆きながらするようにでは、支える人自身にとって有害とはなっても、益にはならないとも教えている。
 福音のために、何の後顧の憂いもなく励めるようにする教会員は素晴らしいものである。そこに教会としての健全な成長を遂げる姿勢があるからです。霊的な救いへの導きと励ましと希望を受けた教職への神の定めなのですが、その奉仕をさせていただく中で成長を遂げるのです。
 19節から以降は、福音のためにすべてのことをして、自分を喜ばせることを退けるのです。それは福音を伝えている自分が失格者にならないためだ、パウロは言う。こんなにも福音のために生涯をささげることの偉大な意味を歩む生き方を惜しみなくしたいのです。それでこそ、神への捧げ物をする人と受ける伝道者が一つになる素晴らしい場になるのです。