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2011年12月

2011年12月24日 (土)

主題 <とりなしをされる御子>

聖書箇所 へブル人への手紙 5章 (2011年12月23日)

今日のみことば「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(7)

 5章では、御子(キリスト)について、その役目、働きについて語られている。それは、御子がメルキゼデクの位に等しい大祭司となられたということが記されている。
旧約の大祭司はみな、民の罪のためにささげ物といけにえとをささげるために、民の中から選ばれ、人々に代わるものとして任命を受けた(1~3)。また、大祭司となる名誉を自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けました(4)。祭司職、とりわけ大祭司はイスラエルの民にとって特別な働きを担われる方でした。
御子も、大祭司となる栄誉を自分で得られたのではない。御子キリストは、創世記14章17~18節に登場するメルキゼデクのように、支配者(王)であると同時に大祭司でもある栄誉を、神から与えられた方として証言されている(5~6)。また、キリストは、神であられるのに、人となられ、人々に変わって十字架の死にまでも神のみこころに従い、御子を信じるすべての人々に対して、永遠の救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司と宣言された方として言われています(7~10)。
御子は、このように大祭司ということも特別でありますが、御子についてはさらに、メルキゼデクの暗いに等しい大祭司であるということは、御子にのみ、他に比べることのできないお方であり、この方は天おいても、地においても唯一、すべてのさばかれる権威を持たれたお方であるということを覚えなくてはならない。そして、御子は従順に従われ、その敬虔さによりとりなしが聞き届けられました(7)。このとりなしがなくして、今日の私たちにも救いがなかったということを覚えなくてはならない。

主題 <信仰とみことば> 

聖書箇所 へブル人への手紙 4章 (2011年12月22日)

今日のみことば「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」 (2)

 1~10節には、神の安息について語られている。イスラエルの民が、四十年間の荒野での生活を経て、ヨシュアと共に約束の地に入り、安住を許された(ヨシュア21:43~45)。しかし、それは後に与えられる真の安住、神の与えて下さる安息の前味に過ぎず、ヨシュアも、イスラエルの民も、まだ、神の安息に入ることはできなかった(6~10)。
 天地万物の創造のわざを完成したときに、神は、創造のわざを休まれ、安息に入られた(創世2:1~3)。その後、人間は罪によって神との交わりを絶たれ、神の安息に入ることができない者となってしまった。しかし、神が語られたことを信じて神との交わりが回復され、神の民とされた人々は、やがて、万物が完成する新しい天と新しい地において、神の安息に入ることができるのである(1~5)。
 この神との交わりを回復させられていくのに重要なのは信仰なのである(2)。そして、これはいつの時代においても問われているのである。私たちは、信仰によって、神の安息に入るよう力を尽くして努め、落後する者が、一人もいないようにしなければならない (11)。
 そして、信じることにおいて、もう一つ重要なのは神のみことばである。荒野を旅したイスラエルの民も主のみことばを聞きつつも、忠実に、従順に聞き従わなかったことが荒野の40年の旅となりました。どうように、みことばをどのように聞き続けていくが問われるのである。神のことばは生きていて、力があり、最も鋭い両刃の剣よりも鋭く、私たちの心の奥深くまで切り込み、心のいろいろな考えやはかりごとを明らかにする。神の前で隠しとおせるものは何一つなく、神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されている。私たちはこの神に対して、神が語られたことにどのように応答したかを弁明しなければならない(12、13)。
 私たちは、信仰の耳をもってみことばに聞き、主に従う者とならせて頂きたいと願います。

主題 <不信仰な心にならないように>

聖書箇所 へブル人への手紙 3章 (2011年12月21日)

今日のみことば「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」(12)

 ヘブル人への手紙は、その書簡の名前が示すように、ユダヤ人へと宛てられた手紙である。それ故に、ユダヤ人の歴史をよく知っているという前提があり。この3章ではユダヤ人、イスラエルの歴史に触れて語られている。そして、その歴史を見ていくのは、イスラエルの民の神に対する忠実さ、従順さに焦点が当てられています。
イスラエルの人々は、エジプトの奴隷状態から逃れたことを初め喜んだが、荒野の生活は苦しく、きびしいものになると、うめきとつぶやきとがんこな不従順が、彼らの神に対して取った態度でした(7-9)。
かつてのイスラエルの民の不従順に触れて、今、生きるユダヤ人キリスト者に対して、信仰から離れることなく、その信仰を全うするように勧めました。
そして、その信仰にあって歩むことについて、重要なのは、しっかりと主のみことばに聞き、従ったときのことを覚えていくということでした。7節、15節に「きょう」と繰り返して出てくる言葉は重要である。荒野にあって歩んだイスラエルの民は、確かに、主の御声に聞き従い、エジプトを脱出し歩み始めた。そこのは、信仰の旅路の出発点であったことを示している。その信仰をもって出発した旅は、やはり信仰を全うすることによって、旅は成功するのである。
12節「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。」との注意は、単なる警告ではなく、神の民として歩む者にとってのこの地上を歩む、信仰を全うしていくための秘訣でもあるのである。
私たちも、いつも絶えず、不従順な心、不信仰な心が真に行ける神からは慣れさせてしまう要因であるということに注意深く、霊的に眼覚めた心をもって、歩むことが出来るように祈っていきましょう。

主題 <御子が人となられた目的>

聖書箇所 へブル人への手紙 2章(2011年12月20日)

今日のみことば「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」(9)

 1~4節では、神が御子によって語られたことを聞いて、ますますよく理解するように、またそれを土台として生活をし、押し流されないようにと警告されている。救いは最初、御子によって語られ、それを直接聞いた人たち、特に使徒たちが、確かなものとしてこれを宣べ伝え、神は、さまざまの奇蹟により、また聖霊のお働きにより、証しされました(3~4)。「押し流されないように」という警告の言葉を注意深く聞く者とならなければならない。今日の時代も、時代の価値観、風潮に流されないように、聖書のみことばに注意深く聞くことを大切にしていかなくてはならない。
5~18節では、1章でも触れられていたことでもあったが、御子は、御使いよりもまさることについて続けて言われている。神は、御使いではなく、人となられた御子を万物の支配者とされました(5)。人間は、罪のために、万物の支配権を失ってしまったが(6-8)、人となられた御子は、しばらくの間、御使いよりも低くされ、すべての人のために死の苦しみを味わわれ、復活し、天の父なる神の右の座に引き上げられて万物の支配者とされ、また私たちをも支配者としてくださることが言われています(8-13)。
御子は、私たちが神との交わりを回復し、神の民としての歩みをするために、人となられた方であり(14)、そして、私たちの身代わりとなって十字架の死にまでも従われ、悪魔の力に勝利され、私たちをも悪魔の力から解放してくださった方であると言われています(14~16)。
そして、人となられた御子は、私たちの罪に対する神の怒りをなだめ、また試みられている私たちを助けることのできる、大祭司ともなられたのであると言われています(17、18)。
 御子は人となられるという点で一度は低くなられた方でしたが、その目的は私たちの罪の赦しのために十字架にかかわれるためであったこと、私のためであったということをもう一度確認し、感謝する者でありたいと思います。

主題 <御子は人であり、神なるお方> 

聖書箇所 へブル人への手紙 1章 (2011年12月19日)

今日のみことば「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(3)

 今年のアドベントの時期に、へブル人への手紙を共に読み進めていくことができ幸いに思っています。へブル人への手紙のキーワードは「御子」であり、救い主イエスはどのようなお方であるかを良く示し教えてくれる書簡である。降誕されし御子イエス・キリストを覚えながら読み進めていきたい。
1章では、御子が父なる神と共に宇宙を創造された方であることについて、2節、10節で言われている。さらに、3節では、父なる神と御子なる神の関係について、「神の本質の完全な現われ」と言われており、神なる方が御子と同一の方であり、神ご自身の本質を持たれたお方として言われている。
また、1章では御使いについて言われている。これはユダヤ人が御使いについて重要と考えていたことを伺わせるが(ガラテヤ3:19、使徒の働き7:38など)、御子は人となられ、十字架の死にまでも従われる仕える方として来られたお方であることに触れ、御使いと御子と同等ではないことを強調している(5-8、13、14)。
クリスマスの記事を振り返ると、御父は御使いガブリエルを遣わされて、マリヤに御子なる神の誕生を告げられた(ルカ1:30~35)。そして、イエスご自身は、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と言われて、ご自分が神であること証言されました。確かに、御使いはメシヤ来臨を告げるのみで、重要なのは、御子は神であり、この御子の来臨こそが重要であり、救いそのものの現われであることを覚えなくてはならない。
私たちは、御子をどのようなお方であると告白するだろうか。主は、完全な人として、御父と一つであることを確認することのできる神として、御父と私たちを近づけて、私たちを御父のものとすることができる方である。そして、十字架の死によって私たちの罪の罰を取り除く道を開かれたときに実現した方である。
今日、御子を本当に知り、主と告白するものとならせて頂きたい。

主題 <役に立つ者になって>

聖書箇所 ピレモンへの手紙 1章 (2011年12月18日)

今日のみことば「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。」(8)
パウロは獄中にあってオネシモと出会い、パウロに導かれてオネシモは救われました。このオネシモはピレモンの奴隷であったので、かつての主人であるピレモンにオネシモを送り返すにあたってこの手紙を書きました。
ピレモンについて言えば、パウロは4~5節に言われているように、彼を非常に評価し、さらなる教会における交わりが生きて働くものとなるように願い、ピレモンがその働きに大きく参与していくようにと期待を込めていたことが伺えます。おそらく、ピレモンが当時の初期キリスト教会にあって用いられていたとも考えられます。
そのようなピレモンに対して、パウロは信仰に導き、いくらかの借りがあるように言って、オネシモを赦し受け入れるように命じることもできたようですが(8)、当時の奴隷制度に従い、パウロはオネシモに対する対処をゆだねていきます。オネシモが主人のピレモンにどのような損害を与えたかは詳しくはわからないが、パウロはその弁済の準備があることを伝えています(18)。しかし、それ以上に、オネシモが主人のピレモンに有益な者となることを伝えたのでした。
当時の奴隷制度からすれば主人にはむかった奴隷は死罪が適当とされていましたが、そのことから考えればキリストにある交わりはその関係を越えたものとなることを教えています。この手紙の価値は今日の時代においても社会的な価値観以上に、キリストにある交わりの豊かさの重要性を教えているところにあると言えるでしょう。
 私たちは、このキリストにある交わりの豊かさを本当に体験しているでしょうか。時代の価値観、人間観は変わっていきます。しかし、神の視点から見たならば、そこにある永遠のいのちの救いの恵みを頂いた者同士の交わりは、天の御国へと続き、この地にあっては人と人との隔てられた壁となる価値観は一掃され神のみことばに教えられた、新たな価値観に従っての交わりが築き上げられていくことを感動をもって、この交わりの中に生かされていきたいと願います。一人一人は主にあって役に立つ者となっているという人間観をもって交わりを豊かにすることが出来るように祈りましょう。

主題 <恵みによって義と認められ> 

聖書箇所 テトスへの手紙 3章  (2011年12月17日)

今日のみことば「それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。」(7)

 神の相続者となった私たちの救いの理由、原因とその結果が明瞭に記されている。
私たちはみな以前は、3節にあるように、愚かな者であり、欲情の奴隷であり、憎まれ、憎しみあう存在だったのです。
 しかし、4節のあるように神のいつくしみと人への愛が現われたのです。主イエス・キリストが来られて、私たちを救って下さったのです。
 その救いとは、5節のように、私たちの行いによって救われたのではありません。どこまでも神の大きなあわれみによったのです。聖霊により、新生と更新の洗いをもって救われたといいます。イエス・キリストの十字架による救いを信仰をもって受け入れたときに、生まれ変わったのです。それを洗礼によって表わすこととなります。
 救いの大きな恵みのすべてを聖霊を満たして、そして日々に注ぎ続けていて下さいます。聖霊は神であり、信じた人の中に住まわれています。ですから、地上に生きる間にも、天の御国を心のうちに受け入れているのです。
 徹底してキリストの恵みによるのであり、義と認めていただいています。さらには永遠のいのちの望みによって相続人となっているのです。現実の生活には多くの試練や貧しさがあったとしても、天の御国の相続者であることをしっかりと心に刻みましょう。
 この事実は信じるに価するすばらしいものです。こうした恵みの救いを受けているからこそ、8節にある良いわざに進むように変えられ続けるのです。

主題 <十分な権威をもって話す>

聖書箇所 テトスへの手紙 2章  (2011年12月16日)

今日のみことば「あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。」(15)

 パウロはテモテにもそうでしたが、若いから、弱さがあるからといって人に軽んじられない敬虔な生活を送ることを勧めます。この偉大な神の教会の使命を果たすために、絶えず一つのことに心を注がなければなりません。健全な教えにふさわしいことを話すのです(1節)。テトスの生きた時代もそうでしたが、当時よりもさらに終末の濃い現代に生きる私たちです。
年をとった方々には、自制や謹厳な生き方で、健全な信仰生活をめざすように訓練するのです。老婦人たちにも、神に仕えている者らしく敬虔な信仰生活をめざすように教えるのです。若い人々にも思慮深くあるように勧めるのです。ことに若い人々がこの世の中で模範となるような生き方をめざすように勧めていることに注目しましょう。
奴隷の身分に置かれている人にはことに、主人に心から従うように教えるのです。奴隷に対して敬虔な生活をていねいに導きます。ことにキリストがご自身がささげられた犠牲は不法から贖い出すためでした。そして奴隷を神ご自身のためにきよめるためだったのです。
ですから、テトスの全力を傾けてなすべきことは、十分な権威をもって話すことなのです。軽んじられない牧者こそ、求められているあり方です。すべての人を救う神の恵みが現われた(11節)のですから、すべての人につまずかせることなく、主の素晴らしい救いの道へと導かなくてはなりません。

主題 <監督は神の家の管理者> 

聖書箇所 テトスへの手紙 1章  (2011年12月15日)

今日のみことば「監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず」 (7)

テトスはテモテと同様に使徒パウロから委託されて、パウロが開拓した教会の牧師(長老・監督者)を立てるつとめを果たすように委任されます。<神の教会>といわれるように、神の所有とされている群であり、立てられる牧師や役員たちへの指導を書いて牧会の人を全うするように教えます。
 パウロはテトスも「真実のわが子テトスへ」と信頼を置いています。主イエス・キリストもまた、我が子としての私たちに大事な神の教会を預けて下さっているのです。すべてのクリスチャンは同様な使命と責任を授けられています。監督という立場になかったとしても、神の家の管理者であることは間違いない立場なのです。
 この監督へのあり方は何のために求められているかといえば、9節にあるとおり、教えにかなった健全なみことばを伝えるためです。健全な教えで人々を励ましたり、反対者を正してゆくためです。
 そこで、7-9節に、自分を生活を非難されるところのない歩みをするのです。また旅人を良くもてなすのです。善を愛するのです。慎み深く敬虔で自制心があり、教えを正しく守っている人です。
 クレテ人への問題を書いていますが、そうした時代のただ中で、教会は立て上げられ、福音が前進し、聖徒たちが成長してゆくのです。

主題 <みことばを宣べ伝えなさい>

聖書箇所 テモテへの手紙第二 4章(2011年12月14日)

今日のみことば「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2)

 パウロの書いた書簡の中で、このテモテへの手紙第二がパウロの晩年、最後の手紙と考えるならば、パウロの地上における最後の勧めと取ることができる。パウロの勧めたことは何か。それを一言で言うならば、「宣教」でした。
パウロは、1節にあるようにキリストの再臨と、来るべき神の国とを思いながら、「みことばを宣べ伝えなさい」と命じました(2)。この命令はパウロの個人的な思いなのではない。かつて昇天される前に復活の主イエスが弟子たちに命じられた大宣教命令(マタイ28:20)にあったことであり、主の教会は今日もこの命令に応じて宣教を行っている。
また、この命令は、テモテのような伝道者だけに対するものではなく、イエス・キリストの救いを受けた、すべての者に対して語られている。福音宣教の働きは、救われた信仰者の特権である。
 時が良くても悪くても「しっかりやりなさい」とは、「備えていなさい」というような意味もある。私たちは時の良し悪しを計るうちに、語る機会を失つてしまうことがないだろうか。良い機会も、躊躇しているならば失われてしまうし、その逆にふさわしくない時と思えても、知恵と忍耐とまた謙虚さとによって、効果的な証しの機会と変わり得るものである。パウロはテモテに、今の時の困難な迫害があっても、なお語り続けていくことが重要であることを語りました。
 さらに、パウロは、「自分に都合の良いことを言ってもらうために、…教師を寄せ集め、…空想話にそれて行く」(3~4)と言い、宣教の働きが非常に困難なものであることを予告している。
しかし、宣教の責任を果たしていくことは、困難ではあるが決して不可能ではないく、このような時にこそ忠実に行っていくことが重要であることを教えられました。そして、それは今日の私たちにも同様に語らえていることを覚えたい。私たちも地上の生涯を終えようとする晩年に、宣教への重荷をもって歩んでいることができたら幸いなことである。