« 2012年3月 | メイン | 2012年5月 »

2012年4月

2012年4月 2日 (月)

主題 <誠実を尽くすヨセフ> 

聖書箇所 創世記 39章    (2012年 3月29日)

今日のみことば「監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」(23)

 39章は、再びヨセフの話に戻り、物語は続いていく。
 エジプトに連れて行かれ、ポティファルに買い取られたヨセフは、その家で、主人の絶大な信頼を受けた(1-6)。と同時に、主人の妻からのしつこい誘惑も受けた(7)。しかし、ヨセフは、彼女の誘惑を断固拒否し続けた(8)。しかし、そのような、ヨセフの忠誠にもかかわらず、主人はヨセフを誤解し、彼を投獄してしまう(19-20)。ヨセフの主人ポティファルへの忠誠は、顧みられることはなかった。信頼関係を築こうとしても、時として誤解を受けて関係が損なわれることは今日の私たちの人間関係にもしばしば起こることである。
しかし、ヨセフは投獄されても、その監獄の中でも、監獄の長に忠実に仕えることによって、監獄の長から絶大な信任を受けている(21-23)。誠実を尽くし続けていくヨセフの姿に学ばなくてはならない。
なぜ、ヨセフは人を恨み、自暴自棄になるところなのに、なおも人に忠誠を尽くしていくことができたのだろうか。それは、ヨセフの主なる神への忠誠、つまり、正しくさばかれるお方に対する忠誠にあるのであろう(9後半)。もう一つ注目したいことは、「主がヨセフとともにおられた」ということが、繰り返し出てくることである(2、3、21、23)。これは、ヨセフの主に対する忠誠(愛と信頼)よりも、主のヨセフに対する誠実(愛と恵み)の方が勝っていたと言える。どんなに失望させらえることが起こっても、主はヨセフを見捨ててはおられなかったのである。
 主は誠実に生きる者のただ中に共におらえることを覚えよう。

主題 <ユダの罪>

聖書箇所 創世記 38章    (2012年 3月28日)

今日のみことば「ユダはこれを見定めて言った。「あの女は私よりも正しい。私が彼女にわが子シェラを与えなかったことによるものだ。」それで彼は再び彼女を知ろうとはしなかった。」(26)
 ヨセフ物語が始まって、すぐに38章では、ヨセフの兄ユダについてあえて挿入されるように記されている。
 ヨセフの事件以降、ユダは家族から離れてヒラという地に天幕を張って移り住んでいく。そこで、ユダはカナン人のシュアの娘を妻とした。ユダもカナン人との結婚によって神の御心に沿うことをしなかったことが言われている。このことは、やがてさまざまな問題の始まりとなっていく。
 ユダとカナン人シュアの娘との間に、三人の息子たちが与えられるが、そのうちの長男エル、オナンが続けて死んでいく。この死の原因について詳しく知ることができないが、どちらも結婚関係の文脈の中で、「主を怒らせた」(7、10)とあることから日常的に性的に非常に重い罪を犯していたということが伺える。
 ユダ自身も息子の嫁タマルを遊女と勘違いし関係を持ってしまった。子孫を残そうとしたことであったが、タマルはユダをだますことになり、ユダは自分の犯したことを言っときは隠そうとする(20)。最終的には、ユダは自分の犯した罪を認め(26)、タマルはみごもって双子、ペレツとゼラフを生んだ。
 これら一連のユダに関する記述は恥ずべき歴史であると思われるが、聖書は克明に記録している。また、驚くべきは、イエス・キリストの系図の中に、「ペレツ」と「ゼラフ」の名前を見つける。そして、ペレツの子孫が主の祝福を受けていくことになっている(ルツ4:12)。
 恥ずべき歴史の中に主の顧みとあわれみの歴史もあるのである。霊的感覚を失ったと思われるユダであるが、しかし、主はそのような者にも導き続けて下さったという神の恩寵を改めて覚えたい。

主題 <ヨセフの見た夢と兄弟たちからのねたみ> 

聖書箇所 創世記 37章    (2012年 3月27日)

今日のみことば「兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心に留めていた」(11)

 37章からはヤコブの歴史として、ヤコブの権威のもとにある「ヨセフ物語」が始まっている。
 ヤコブはヨセフを愛し、その愛は他の兄弟たちのねたみをもたらすほどの偏愛であったことが言われている(4)。
 また、ヨセフは自分の見た夢について兄弟たちについて話すが、その夢について話すことば使いなどでも他の兄弟から憎しみをかうようなことをしていたことが言われている(8)。
 このようなヨセフの振る舞いもあって、他の兄弟たちは憎しみから、殺意へと発展していく。兄弟同士で憎しみから殺意へと発展していったカインとアベルの事件を思い起こさせられる。
 しかし、ヨセフの場合、兄ルベン、ユダのとりなしによって、殺されることなく、結果的にはイシュマエル人に売られていくこととなった(26~27)。殺されることはなかったが、ヨセフの存在を消そうとしたことは殺したのと同じようなことで、ヤコブは非常に泣き悲しんだ(34)。
 一連の兄弟のうちに根強くあった「ねたみ」について考えると、人間関係の緊密な関係の中に「ねたみ」は起こってくることが分かる。それは今日の私たちも注意しなくてはならない。
 また、このような兄弟間におこった「ねたみ」の中にも神は背後に働かれていたことを後に知ることになる。ヤコブはヨセフの見た夢について思いめぐらしていたように(11)、さまざまな出来事の中にも主の御心があることを覚えなくてはならない。一時の激する感情に流されるのではなく、主の御心はどこにあるのかを静まって祈り求めていくことを大切にしなくてはならない。

主題 <エサウの歴史> 

聖書箇所 創世記 36章    (2012年 3月26日)

今日のみことば「これはエサウ、すなわちエドムの歴史である」(1)

  36章はヤコブの兄、エサウの歴史について、その子孫について記されている。
 エサウはカナン出身の妻をめとった。「アダ」、「オホリバマ」(2)の名前があげられているが、このエサウの妻として言われているが、以前に記されていたエサウの妻の名「エフディテ」、「バセマテ」(26:34)と異なっている。これはエサウがカナン出身の複数の妻をめとっていたということを示している。「カナン人の娘の中から・・・妻をめとってはならない。」(24:3、28:1)という父祖たちの戒めに従わなかったことが分かる。
 19節「これらはエサウ、すなわちエドムの子で、彼らの首長である。」とあり、エサウに続く子孫たちは「エドム人」となったことが言われている。このエドム人はセイルの山地を拠点とし、もともとは首長制度によって統治していたようであるが、イスラエルより先に王制をとるようになったようである(31)。エドム人が発展し力を持つようになっていったことを示している。
 しかし、どうしてこのような詳しいエドム人についての歴史が記されているのだろうか。それはかつてアブラハムの歴史に並び、女奴隷の子イシュマエルの歴史が挿入されていたのと同じである。エサウの子孫エドム人が、ヤコブの子孫イスラエル人の歴史の中で、どのように取り扱われてきたかを示そうとされていると取ることが出来る。神の御前に従順に生きた民族、そのように歩まなかった民族のそれぞれの歩みの違いがいかに大きいかを示そうとしている。
 私たちは、信仰によって神の民とされていることを覚え、主の従う民として、この地上の歴史を刻む者とさせて頂きたいと思います。

主題 <信仰の原点>

聖書箇所 創世記 35章    (2012年 3月25日)

今日のみことば「神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」」 (1)

 エサウとの和解の後、ヤコブの人生は好転するかに見えたが、シェケムでの事件は悲しみと復讐の連鎖への恐れとで、いっきに先が見えない状況となってしまった。
 そのようなヤコブに対して、神はべテルに上っていくように示されました(1)。兄エサウの住むセイルでもなければ、シェケムでもなく、べテルへと導いて、そこで「あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」と言われました。
 べテルはかつてヤコブが兄エサウの怒りを逃れるために、一人旅立ち、その旅路の中、孤独に石を枕にして寝るしかなかったヤコブに、神の臨在と旅の守りを約束された、言えばまさにヤコブが神と出会い、信仰を持った原点の場所でありました。
 ヤコブはシェケムの事件以降、無気力になっていたかもしれない。そのようなヤコブは「私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」(3)と言い、さまざまな異国の神々を捨て、奮い立って出かけていきました。
 時として迷い、悩み、どうしたら良いか導きを人は必要とする時がある。ヤコブもさまざまな異国の神々にも触れて、頼ってしまっていた弱さもあったことが分かる。でも、ヤコブにはっきりと語られ、導こうとされている神の存在を思い出し、再び、信仰の原点であるべテルへと向かったのでした。
 あなたの信仰の原点はいつ、どこからだったのでしょうか?主の導きを絶えず求めていく者とならせて頂きたいと思います。

主題<シェケムでの事件から考えること>

聖書箇所 創世記 34章    (2012年 3月24日)

今日のみことば「ただ次の条件であなたがたに同意しましょう。それは、あなたがたの男子がみな、割礼を受けて、私たちと同じようになることです。」(15)

 エサウと和解したヤコブはエサウの住むセイルの地へと行かず、シェケムへ向かった。このシェケムの地でヤコブの娘ディナが辱められるという事件が起こった。シェケムのハモルとの話し合いで一端は平和的解決を見たように思うが、ディナの兄たちによる復讐の策略が背後に隠され、さらなる悲劇が続いた。
 この一連の事件の中で、一つは割礼を施すことを求めたことであるが、割礼の意味を語ることなく、ただ割礼を受けるように勧めているところに、信仰なき信仰となり、形骸化してしまっていたのではないかということが問われるように思われる。単に、割礼を施すことが一つの民となるという言い方は、以外にも私たちが形式、形だけが先にいって、信仰が問われないならば問題である。
 もう一つは復讐ということである。割礼を施したヒビ人を襲撃し、報復したことが、ヤコブの本意ではなかったが、したことに対しての責任を取るということよりも、さらなる復讐を恐れ、悔い改める姿勢がヤコブに見られなかったことは残念なことであったと思う。復讐に続く、復讐への恐れ、この連鎖は今の時代にも通じている。復讐から解決を見出すことは決してできないことを思わされるのである。
 繰り返される悲劇が続かないように、執成しの必要を覚え、悔い改め、赦すということができるための備えのために祈らなくてはならない。

主題 <和解の備え>

聖書箇所 創世記 33章    (2012年 3月23日)

今日のみことば「ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。 エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。」(3~4)

もものつがいをはずされたヤコブは、足を引きずっていた。しかし、自我を打ち砕かれたヤコブは、エサウヘの恐れが取り払われており、エサウとの再会の準備が整っていたことが分かる。
ヤコブは足を引きずりつつも、七回も地にひれ伏しおじぎをした。潔くエサウの前に出ていった。それを見た兄は、過去の欺きの行為を忘れ、走ってきて、弟をいだき、首に抱きついて口づけし、二人は泣いたのであった。真実の和解は潔く、謝罪していくことなくしてはあり得ないことを痛感させられるのではないだろうか。
贈り物を差し出したヤコブに対し、兄は一旦その申し出を断った(9)。エサウも大いに富んでいたのである(9)。もし、エサウが長子の特権と父イサクの祝福を失った結果、たとえば貧困にあえぎ続けていたとすれば、失ったものを忘れることはできず、ヤコブに対する憎悪を消すことは難しかっただろう。神はヤコブの手の届かないところで、和解のために働かれておられたと言える。
ヤコブは兄エサウとの和解のために備えていくが、実は、神ご自身によって、ヤコブ自身が潔く、真実を語ることが出来るように導かれ、さらには背後で、神ご自身がエサウにも働かれて、和解の備えをなしていてくださっていた。
神の備えて下さっている和解の豊かさを覚え、私たちも和解の身を結ぶ者となれるように祈りましょう

主題 <格闘の祈り> 

聖書箇所 創世記 32章    (2012年 3月22日)

今日のみことば「するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」」(26)

 帰郷を目前にして、兄エサウが報復するという恐れは、ヤコブの心から消えなかった。そこで多くの家畜の贈り物攻勢で、兄の心をなだめようとした。
しかし、それでも恐れをもっていたヤコブは家族のものたちを先に行かせ、ヤコブは一人残り、そこでヤコブは「ある人」と格闘する。ヤコブは「ある人」に祝福してくださいと求め、その求めは執拗なまでに必死な求めとなっていたことが分かる。この願い求めていく格闘は今日的言えば祈りを指していると言える。ヤコブは神と向き合うことが重要であり、祈っていく必要があったのである。この格闘は夜を徹して行われた。
「ある人」はヤコブの執拗なまでの求めに応えられる。ヤコブは「その人」から名を問われ、私はヤコブ(人を押しのける者)と自らの状態を告白する。それに対し、「ある人」は彼を、(神の祝福を受ける)イスラエルと改名した(28)。神の御前で勝つとは、自分の罪を認め、悔い改め、自分の弱さを認め、神の御思いのように、私をお使いくださいとゆだねていくところに勝利があることが分かる。ヤコブはこの時、もものつがいがはずれることになるが、これはまさにヤコブが砕かれたことを意味し、新たなヤコブに変えられていったことを意味している。
祈りは人を変え、新たな主の祝福にあずかっていく時となるということを教えられる。まず、何よりも祈りに徹する者とならせて頂きたいと思います。

主題 <神の介入>

聖書箇所 創世記 31章    (2012年 3月21日)

今日のみことば「主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」」(3)

 ヤコブが富み栄えるのを見て、ラバンの息子たちは「われわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ」と言った(1)。ラバンの側の、ヤコブに対するねたみ、不信感が決定的になったのである。一方ヤコブも、欺き、約束した報酬を何度も変えたラバンのやり方に、不信感を募らせていた(7)。
このままの関係を続けるわけにはいかない。ヤコブとラバンとの関係は極みにまで達してきていたことが分かる。この時、いよいよ神が介入され、ヤコブに帰郷を促すことばがあった(3)。神の時、タイミングは絶妙であることを思わされる。
帰郷に際し、ヤコブはラバンのもとを逃げるように出ていき、ラバンと激しい口論となっていく(26~42)。その口論の内容は20年の間鬱積した思いを互いにぶつけていくもので、お互いが親子関係にあることさえ感じられないものだった。長い間、共に生活しながらも関係が深まることのなかった悲しさを感じさせられるものがある。
今日の箇所から考えさせられることは、ラバンも、ヤコブもお互いに相手が態度を変えることを願っていたというところにあるように思われるのである。そのような思いがいつしか猜疑心になって、相手も攻めていくものとなってしまっていたように思うのである。
私たちの人間関係はどうだろうか。人を、相手が変わらない、変えようとする思いではなく、まずは自らを顧み、自分から変わっていくことが必要であるという認識をもっていくことが大切である。
いずれにしても、ヤコブは神の導きのうちに新たな出発を迎え、旅立つ。主の導きの前に従順に歩ませて頂けるよう祈ろう。

主題 <知恵を用いて誠実に生きることを養うこと>

聖書箇所 創世記 30章    (2012年 3月20日)

今日のみことば「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」(43)

 ラバンのもとでの14年間はかつてヤコブが経験したことのない試練、自らの愚かさをとりあつかわれる時となった。しかし、この経験はヤコブを少しずつ変えていくこととなり、再び主の祝福を受け継ぐ者として祝福されていくようになる。
 ヤコブの帰郷の願いには、ラバンから独立し、妻子と財産を自分のものにしたいという思いも含まれていた。ラバンは自らの財産が少なくなることを恐れるが、しかし、ヤコブはそれに反して財産は増えていき、ラバンは、自らがヤコブの背後におられる主の祝福を受け、財産が飛躍的に増加したことを認めざるを得なかった。ヤコブは欺きを経験しながらもが、忠実に働いたのである。この時、ヤコブは様々な知恵を用いた(37-40)。その知恵が功を奏し、「弱いのはラバンのものとなり、強いのはヤコブのものとなった」(42)とある。ヤコブは、大いに富む者となった(43)。
 今日の私たちも、ヤコブのように、確執のある人間関係の中で、信仰者は生きなければならないときがある。しかし、ヤコブのように、欺きに対して欺きで返すのではなく、主が共におられるのならば、確執の相手に仕える知恵と力が与えられる。いつの日かその者が、あなたの背後におられる神を認めるかもしれない。この時は、まだ自分の才覚や勤勉さが前面に出る「ヤコブ」(押しのける者)であった。しかし、主はあわれみをもってヤコブに御手のわざを経験させ、主の円熟に導こうとされていたと見える。
 神の見えざる御手が今、私たちにも及んでいることを覚えたいと思います。