2012年7月27日 (金)

主題<人生という旅路> 

聖書箇所 民数記 33章     (2012年 7月21日)

今日のみことば「旅程は次のとおりである。」(1)
 長い40年間の旅行の経路が記されている。今までの出エジプトから、荒れ野の旅の、実に長い長い時間でした。この間に起こった数々の出来事を思い起こします。不信仰のための失敗、神からの超自然的な祝福、本当に神が生きて、自分たちを愛されている事実を見てきました。
 旅程とは私たちの人生そのものです。生まれてから死ぬその日まで、毎日旅を続いています。それも二度と繰り返すことのできない旅行、戻ることのできない人生です。過ぎ越し方を考えるとき、どれだけ神のみこころに適って歩んできたかと、あなたの旅程を顧みていただきたい。神の忍耐と希望の導きによって生かされてきました。でもその事実を忘れて、絶望的な思いにとらわれたり、振り返ると恥ずかしい限りである。
 イスラエル人もこの歴史に沢山の汚点を残してきた。しかし私たちは過去に対してキリストの血潮をあおぐことができます。
そして将来への開かれた展望に期待しあらゆる機会を逃さず、ただ神の栄光を現し、善を行うものでありたい。
ペテロは次のように忠告するのです(1ペテロ2:11~12)。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」
<祈り>主よ。今年も、その旅路まことに失敗だらけの恥ずかしい歩みですが、あなたの血潮できよめ新しい歩みのために備えてください。  

主題 <願いがかなうことの再考>

聖書箇所 民数記 32章     (2012年 7月20日)

今日のみことば「もし私たちの願いがかないますなら………」(5)  

 ルベンとガド族の選択は、多くの教訓を含んでおります。約束の地を前にしてどのような選択をしていったか、という点についてです。
 ルベンとガド族は、多くの家族と家畜を持っていました。約束の地はヨルダンを渡った土地です。ところが、約束の地よりも、ヨルダン川の手前の方が緑豊かで、多くの家族と家畜を養うのに非常に有利に見えました。
 その願いが出されたとき、モ-セたちは悩みました(6~7節)。このことが、イスラエルの意気をくじいたのです(7,9節)。
 彼らの願いは、戦いに出る事を条件で許されました。「もし私たちの願いがかないますなら」という願いが申し出のとおりにかないます。この知らせを聞いた一族はきっと、手をたたき、歓声をあげて大喜びをしたに違いないのです。
 しかし、彼らの目に良く見える場所は致命的な欠陥がありました。自然の国境が無く、しかもイスラエルの他の部族と孤立していたので、背後にある強い外敵によって、真っ先に滅ぼされてしまうのです。
 こうして見ると、利殖の道に明るい者が必ずしも最後の勝利者にならないことがわかります。私たちの得をする方法を願うことが本当の幸福をもたらさないことも知ることができます。
 神は彼らの願いを聞かれた一方で、たましいをやせさせられたという現実です。時に、願いが閉ざされている困難のうちに、最善の種が蒔かれていたということがしばしばあります。
<祈り>主よ。直ぐ目に見えるところで損得を考えやすいのですが主に従う ことによってのみ最後的な祝福を得られることを心に覚えさせてください。

主題 <火の中を通し、きよく>

聖書箇所 民数記 31章     (2012年 7月19日)

今日のみことば「すべて火に耐えるものは、火の中を通し、きよくしなければならない。………、火に耐えないものはみな水の中を通さなければならない。」(23)

 偶像礼拝や堕落が、聖潔(ホーリネス)にいかにかけ離れたものであるかが本章よりわかります。
 ミデアンのわざわいを徹底的にこわしてしまいます。ミデアン人のわざわいとは、イスラエル人を偶像に誘惑して、バアル・ペオルの礼拝に引き込み、ミデアンの女との汚れた行いをするようにさせていったのです(民数記25章16~18節)。
 こうした汚れをそのままにして、経済的に豊かになっても、決して幸福になることができません。かえって災いとなるものです。
 第二テモテ2章21節には『自分自身をきよめるならば、主に役立つ器になる』と書かれています。神は分捕り品も、ことごとく火か水をとおしてきよめるべきことを命じられています。
 F・Bマイヤ-は厳しい火で試されたものも、ゆるやかな水できよめるられたものもあるというところに、硬軟強弱とりまぜて主の聖化のみ手を見るような気がする、と語っています。
 神は火や水にたとえるいくつかの方法をもって、私たちを聖化されるのです。あなたを大いに用いるために聖化させてくださるのです。

<祈り>主よ。あなたが私をいろいろな方法できよめ貴い器として用いてくださることを感謝します。

主題 <口から出たとおりの事を実行>

聖書箇所 民数記 30章     (2012年 7月18日)

今日のみことば「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりの事を実行しなければならない。」(2)

 自分で責任をとれる立場の人は、主に誓ったことは必ず守らなければなりません。自分の口で言ったことは実行しなければなりません。人と人との関係は、約束によって成り立っています。
 ところが父のもとにいる娘や、夫のいる妻の場合は、その誓いが、父あるいは夫が承認しない場合が起こります。この場合は、一つの誓約も無効とみなされ、誓願を果す責任から解除されます。
 神は彼女自身でどうにもならないと言う原因がおこったときも、しばりつけてしまうお方ではないと言う原則を示されたのです。
 神は約束を破ることを憂えたり、怒ったり、することよりも、情勢が万やむをえないと認めたならば、変更手続きを認めてくださるお方でもあるのです。
 私たちは原則だけで人をさばいてしまうことがありますが、神にある生活には思いやりや配慮が働くことを心に刻みましょう。

<祈り>主よ、私たちは自分で誓った事でも守り得ないことがありますが、そうした時にも私たちの弱さを理解して許し、変更をも可能な道を備えてくださることを感謝します。

主題 <聖なる会合を開け> 

聖書箇所 民数記 29章     (2012年 7月17日)

今日のみことば「第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。」(1)

 聖なる日の定めです。聖会を開くようにという神の命令は、何と幸いなことでしょうか。この聖会は神にまみえる集いであり、感謝の犠牲をささげるのです。神に近づき祈ることはどんなに価値のあることでしょうか。
現代では、主イエス・キリストの十字架の犠牲により、神に近づく道があります。私たちは十字架のもとに近づき、ゆるしと永遠の生命を受けるのです。
 7日目が安息日であるように、7月の1日目は聖なる時です。安息の日です。こうした日を自覚することには、大きな恵みが備えられております。
 聖会の期間は、どんな労役もしてはならないことに注目したいと思います。
 聖なる神に会うのであり、神の御顔を見て、心から満ち足りることができるのです。ですから聖会は普通の集会よりも主の臨在が豊かであり、この世の労役を忘れ、新しくされ、新しいいのちが流れ込むのです。毎週の礼拝もまたそうした聖会としての意味を持っているでしょう。
 それがやがて豊かな実りという結果をもたらすのです。

<祈り>主よ、私たちの心が満たされているとき、より輝き、労役も喜びと感謝に変ります。神に近づき祈る時を優先させて下さい。アーメン

主題 <ささげる祈りと献身> 

聖書箇所 民数記 28章     (2012年 7月16日)

今日のみことば「あなたがたは、わたしへのなだめの香りの火によるささげものとして、わたしへの食物のささげものを定められたときに、気を付けてわたしにささげなければならない。」(2)

 神にとって世界のすべてはご自分のものです。ですから、ささげもののすべては、もともと神のものなのです。
 ところが神は私たちのささげものを食べることを望まれています。
 私たちはしばしば、「私を恵み給え、満たし給え」と祈り求めます。義に飢え渇くことは、とても大切ですが、この求めばかりが先行していて、感謝や自分を神の御用のためにささげるという方面が欠落しているのではないかと思うことがあります。
 この点についてちょっと見方を変えてみると、神様の方が私たちの祈りに渇いておられるのではないだろうかと思えるのです。神様が、私たちのささげものを欲しているのではないだろうか。
 神は、私たちが満たし給えと言いながら、ささげることを忘れているため神が渇いておられるとしたらどうでしょうか。
 まず私たちが神の渇きを満たそうと考え、神に喜ばれようと心を変えるのです。祈り方を変えるのです。
神に近づき、神に自分を明け渡すなら、神の満足された心を見て、私たちは深く心から満足できるのです。あなたのすべては、もともと神のものです。神のために、神によって造られたのです。今日から、あなたの祈りを変えてみてはいかがですか。

<祈り>主よ、ささげる祈りと献身を受け入れてください。独りよがり  でなく、あなたの心を喜ばせる生涯を歩ませてください。アーメン

主題 <あなたの手を彼の上に置け>

聖書箇所 民数記 27章     (2012年 7月15日)

今日のみことば「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。」 (18)

 モーセは、死期が近づき、アバリム山に上り、長い間夢にも見たであろう約束の地『カナンを見よ』との神の声を聞きました(12節)。 
 モ-セはたったひとつの失敗のゆえに約束の地に入れず、神に召されるのです。そこでモ-セの後継者選びを神に求めると、ヨシュアが指名されました。ヨシュアは神の霊の宿っている人であった。長い間モ-セの補助者だった。偵察に行った十二人の中で、際立った忠実な信仰の告白をした人だった。
 モ-セは、後継者に自分の子供など考えていない。全イスラエルのために自分や自分の家族はどうでもよかった。
ヨシュアほど長い年月、脇役をつとめた人は少ない。ヨシュア記を見れば分かりますが実力は十分ですが、40年という長い期間、従い続ける謙虚さを持つ者はわずかしかいない。
 またそうした部下を見いだし、助け、共に働く人も少ない。モ-セとヨシュアの二人は何と良い模範を見せてくれるだろう。この優れた後継者に、手を置き、すべての権威を分け与えて譲ったのです。すべてをゆだねるモーセのスピリットを受け継ぐ神の霊の宿っている人、すなわち私たちもまた、主からの大きな委任があることを覚えよう。

<祈り>主よ。与えられた立場に忠実に生きる謙遜さを与えてくだ
      さい。

主題<すべての人口調査> 

聖書箇所 民数記 26章     (2012年 7月14日)

今日のみことば「イスラエルにあって軍務につくことの出来る者すべての人口調査をせよ。」(2)

 40年の荒野の生活の間に、旧い世代は死に、新しい世代にかわっていました。砂漠の死亡率は高く、反乱や疫病による減少もあったのです。
 神のことばは真実です。神に逆らう民は、彼らの呟きのとおりに荒野で死に、葬られたのでした(64-65)。ただカレブとヨシュアだけが残ったのです。今や約束の地へ入るため人口調査をします。この目的は二つです。
 一つは、軍務につける人数を調べることにあります。これから約束の地を占領するための働き人の数を調べます。教会も神のために戦う兵卒を求めている。神の国のために奉仕につくことができる群となりたい。
 二つは、人口調査は約束の地の分け方、土地の広さを決めるためでした。神が約束された地に入る前に約束どおりに与えてくださると信じた信仰は何と幸いなことでしょう。
 感謝と恵みの先取りをした新しいイスラエル人となるべきではないだろうか。新しいイスラエルの民となった彼らこそ、約束の地を相続する民衆なのです。

<祈り>主よ。あなたのために役に立つ兵卒として用いて下さい。
      しかも、み国のために信仰を堅く握りしめて従わせて下さ
      い。アーメン

主題 <わたしの心を自分の心とした>

聖書箇所 民数記 25章     (2012年 7月13日)

今日のみことば「ピネハスはわたしのねたみを自分のねたみとした。」(11)  

 2節に『娘たちは自分たちの神々にいけにえをささげるのに民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。』とあります。
 天地の創造者なる主が、イスラエルの民を特別愛してくださったことは聖書が物語っている。その彼らが約束の地を目前にしながら、原住民の偶像バアルペオルを拝する娘たちの誘惑に落ち込んでしまいました。彼女たちには、清い生活を望むよりは欲望を満足させる方に重点がありましたから、当然のように堕落しました。イスラエルの人はその異教的な生活と共に、霊的に堕落してしまったのです。今日も多くの青年たちが、この世の中に引き回されて、彼女らの拝む神々について行く人は少なくありません。
こうした時、ピネハスは、神のためにねたみを表し、イスラエル人の長老と原住民の王の娘をさし貫いて、神の怒りをとどめたのです。こうした正しさ、神への忠実な熱心さを持ちたいと願います(13)。そして彼への祝福も見落としてはならない(12節)。今、神は私たちの世界を見てどうご覧になっているのだろうか。神の心を自分の心にする、ちょうどパウロの心そのものですと、オネシモを称賛されたように(ピレモンへの手紙)。
人々の堕落した状況の中に立って、私たちが福音によって変わり、その変えられた生き方という証しによって、人々を堕落から引き止めねばならないのです。ピネハスのような剣ではなく、神にある信仰生活によって、主への熱心さであかしをするのです。全生活で神の栄光をあがめるようにしたい。

<祈り>主よ。わたしの生活があなたの愛を、きよさを表すように。

主題 <祝福を告げる者の姿> 

聖書箇所 民数記 24章     (2012年 7月12日)

今日のみことば「神の御告げを聞く者、全能者の幻を見る者、平伏して目のおおいを取り除かれた者の告げたことば」(4)

 バラムは自分に与えられたイスラエルへの神の祝福を述べます。彼自身の姿を描きます。
 第1に、目の開けられた者
 第2に、神のみ告げを聞く耳の開けた者
 第3に、告げた言葉を語る口の開けた者
と彼は大きな使命を託されていました。
 バラムは、再三にわたり神の声を聞き、幻を見、普通の人以上の運命を見通す者とされていました。しかし彼はついに、ミデアン人と共に死骸をさらす者となってしまうのです(31章8節)。『神の霊が彼に臨んだ』(2節)と言われた彼が、背教者として破滅しました。考えさせられます。
 17節には、「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり」と示され語ります。
 現実の世界をはるかに越えて見つめるのです。信仰とは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留める生き方です。
 ヤコブとここで言われるのはイスラエルのことです。弱さを持つ者としての現実とそれをはるかに超える神の導きを信頼する。

<祈り>主よ。あなたが私を救ってくださり、あなたに従う柔らかな
      心を与えてくださっていることを感謝致します。