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2011年11月23日 (水)

主題 <志を立てさせ、事を行なわせてくださる> 

聖書箇所 ピリピ人への手紙 2章 (2011年11月20日)

今日のみことば「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(13)
 私たちの信仰の究極の目標は、主イエス・キリストです。
そこで、日々の目標は、このキリストに似る生活を志しましょう。そこに、キリストの励ましと愛と御霊の交わりがあるときに、一致をすることが出来るのです。
 何事でも自己中心や虚栄からするのではなく、遜る生活です。そして周囲の人々が自分よりも優れた存在だと心から認めて生きるのです。
 なんと、この姿勢は主なるイエス・キリストの姿勢であり、徹底して仕える生活をされたからです。その徹底さには、ほんとうに驚かされてしまいます。十字架の死にまでも従い抜かれたのです。
 この徹底した謙遜ないやしくされる生き方を神は高く、いや高く称賛されているのです。
この信仰を生活の志として徹底するのです。そして神はこの志を行わせてくださるのです。
 特に、自分自身の救いの達成に努力すると教えます。救いは自分の努力して行うものではないのですが、日々に成長する霊的な輝きを現わさなければなりません。こうしてどの時代の人々に見られても、曲がった時代の中でも、傷のない神の子どもらしくなり、世の光として輝くのです。
 こうして福音のためにいのちをかける聖徒たちの中に、エパフロデトがいます。彼がこの素晴らしい書簡を携えて教会へ届けたのです。
 主にあって労した事柄は、決して無駄になることはなく、暗い時代、罪の時代にあって、神の志に生きる聖徒を捜しています。今日は、一つの決心をし、主の召された使命に全力を尽くそうではないですか。

主題 <キリストのすばらしさが現わされることを求める>

聖書箇所 ピリピ人への手紙 1章 (2011年11月19日)

今日のみことば「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。」(20)

 ピリピ人への手紙は、使徒パウロが獄中からピリピ教会へ送った書簡です(1;12-18)。福音宣教に生涯をかけたパウロは、「いつも喜んでいなさい」と獄中から励ましています。その秘訣は「主にあって」なのです。
私の人生のすべては、キリストのすばらしさが現わされさえすれば、十分であり、感謝であり、結局は、御国の完成にまで導いてくださるのだと確信します。
ですから今、置かれている獄中生活が、周囲に与えている影響を考えています。事実、パウロをこの時とばかりに使徒を否定し、拒否する教会員がいたのです。ところがこのことでさえ、キリストが宣べ伝えられるので、感謝にあふれるのです。
どういう場合であっても、大胆に福音に生きることは主の喜ばれることです。目先の事柄に心を奪われないように大胆に、
しかし、19節にあるように、互いのクリスチャンの奉仕と支え、祈りの援護が必要なのです。こうして一人パウロのみが聖徒になるのではなく、互いの祈りが聖徒を作り上げるのです。
パウロは、私の身によってキリストがあがめられること、キリストが知られることこそを切に願っているのです。私たちの日々の願望は何だったでしょうか。人と比較して優位に立つことや欲望を満足させることに終始してはいなかったでしょうか。
キリストの福音にふさわしい生活とはまさにこのスピリットなのです。

主題 <主に仕えるように> 

聖書箇所 エペソ人への手紙 6章 (2011年11月18日)

今日のみことば「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」(6)

 六章前半では、親子関係と奴隷と主人の関係が扱われている。
 パウロは「子どもたちよ」と呼びかけている。この手紙は、多くの教会宛ての手紙と同様に、教会の中で朗読されたようである。子どもたちも、すでに礼拝や交わりの中で、その手紙を聞く者としてそこにいたということが伺える。また、それは同時に親子関係を考えて行くときに、主の教会にある交わり、神の御前にあって神の家族としての交わりにあって親子関係を考えていくことが重要であることを示しているようにも思う。
子どもたちに、「主にあって両親に従いなさい。」(1)と勧められました。「主にあって」とは、キリストに対して求められるような従順を求めているのである。
 次に、父への呼びかけが続いている。「子どもをおこらせてはいけません。」(4)とは、甘やかすこととは違う。パウロは、子どもたちが落ち着いた心で、主の教えに耳を傾けることができるように、父親は心を配ることが大切だと語っている。
最後にパウロは、奴隷とその主人の関係に言及している。当時の社会では、奴隷は社会の最下層の存在であり、主人は奴隷を生かすも殺すも自由にできた。しかしパウロは、奴隷の身分にあるキリスト者に対して慰めのことばを語るよりも、「キリストに従うように」(5)、「キリストのしもべとして、心から」(6)、「人にではなく、主に仕えるように」(7)、主人に従いなさいと命じている。
 主人に対する命令は、「奴隷に対して同じようにふるまいなさい」というものであった(9)。パウロは奴隷制度を否定しませんでした。しかし、「奴隷に対して同じようにふるまう。」(9)ということは、一人の人間として同等に、同じ様に関わりあうことを勧めているということは、単なる主人と奴隷と言う関係を無力な関係にしようとしていたともとれる。
いずれにしても、主にあることから、親子関係、主人と奴隷の関係を考えていく視点があったことが良く分かるのである。
今日、私たちも主にあって仕えるように、それはキリストのうちにみられた姿であり模範であったことを覚えて、良き関係を築き上げていくことが出来るように祈ろう。

主題 <夫たちよ。妻たちよ。>

聖書箇所 エペソ人への手紙 5章 (2011年11月17日)

今日のみことば「それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」(33)

 パウロは5章22節から6章9節で、キリスト者の社会での在り方について指導し、特に、人間関係について言及しました。この点に焦点を絞って2日間にわたって見ていきたいと思う。
まず、はじめに夫婦の在り方について言われている。夫婦関係が人間関係の基礎となるものだからであるとパウロは指摘していると思われる。
妻に対しては、「主に従うように」(22)夫への従順が求められる。パウロはその根拠として、「夫は妻のかしらであるから」と言っている(23)。しかし、ここで注目しておくべきことはこの命令は、「キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように」と補うように言われており(23)、このことは頭なるキリストと夫になぞられ、夫の側の大きな責任がまずあることを示している。
パウロは、夫たちに呼びかけて、キリストが教会を愛し、ご自身をささげられたように(25)、また、自分自身のからだのように(28)、妻を愛するようにと命じている。
キリストが教会を愛された目的は「教会をきよめて聖なるものとするためであり……教会を、ご自分の前に立たせるため」と言われている(26、27)。夫が妻を愛する目的も同様に、妻がきよめられ、妻を神の御前に立たせることにあることが分かる。しかし、妻だけが一方的にきよめられ、成長していくということではなく、夫が妻を愛するという日々の歩みということから考えるならば、夫と妻が共に主の御前に成長していくことが求められているということであると言えよう。そして、夫の妻への愛の模範として、キリストの教会への愛が挙げられている。そして、「自分のからだのように」という点は、妻に対する身体的にも精神的にも、その状態を知り、その最善を願うことを含んで愛することを勧めていると言える。
このようなキリストと教会との関係と愛になぞって、夫婦関係が豊かに築かれていくことが、結果として、このように対しても証しとなり、ついには神に栄光を帰していくものとなることを教えられたのでした。夫婦関係を見直す時にこそキリストのことばに聞き続けていくことが大切である。

主題 <一致を求めて> 

聖書箇所 エペソ人への手紙 4章 (2011年11月16日)

今日のみことば「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」 (16)

 パウロは、4章以降においては、教会の具体的な歩みについて教えられました。
 パウロは、召しにふさわしく歩むように勧められました(1)。その召しにふさわしい歩みとして、一致の重要性について教えられました。主の十字架によって、ユダヤ人と異邦人が一つにされた今、異邦人である彼らの間に分裂やいさかいがなく、一致することを勧めました。
今日も互いに一致するということは難しいことが多々ある。家族、友人という身近な関係のうちに、少人数ならまだしも、人が多くなれば一致することが難しいことがある。それは、人間的な価値観、考え方で一致を見ようとするならば、難しいばかりなのである。そして、人の世は一致より混乱を極めているとしか言いようもない状況があるのではないだろか。
確かに、パウロは教会の中に一致するという課題があり、教会に集人々の多様性について語る。そして、それぞれの賜物、働き、使命には異なるものがるが(7~11)、これらの違いは教会を建て上げていく上で必要な違いであり、これらの違いこそがむしろキリストの和解の恵みの豊かさを、教会の交わりの豊かさを示すものとして、積極的に一致に向かうように勧めました。からだ、御霊、そして召しのもたらした望み。また主、信仰、そしてバプテスマ。そして父なる神。キリストのからだである教会。バプテスマは、唯一の救いに対する信仰の告白である。これら列挙されていることがらは、今後一致が期待されているものというのではなく、神の約束のゆえに、すでにひとつとされているものであることを確認するように言いました。
 それぞれの働きや使命は異なるが、その目的はキリストのからだとして、そのみわざを十二分に現すことにあることを教えられました。これらの違うを結び合わせる結び目が必要であること。それは愛によって建て上げられていく必要があることを教えられました。
 私たちも主の教会の建て上げのために一致して祈りましょう。

主題 <共に約束にあずかる者として> 

聖書箇所 エペソ人への手紙 3章(2011年11月15日)

今日のみことば「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」(6)

 パウロは、当時、彼はとらわれの身でした。パウロは自らを「あなたがた異邦人のためのキリスト・イエスの囚人」と言っている(1)。それは、異邦人に福音を宣べ伝えることこそが、自分の使命であることを、言い表したものである。以前、彼がキリスト者たちを迫害していた頃ならば、決して思いもしなかったことであろうが、その使命を啓示によって知らされた(3)。それは、ダマスコ途上での復活の主との出会いに始まる(使徒9章参照)、神の特別な扱いを指している。
 神の救いのご計画はイスラエルに留まるのではなく、異邦人も、ともに約束にあずかる共同相続人になるとパウロは理解している(6)。パウロがこの福音に仕える者とされた根拠は、彼自身の内の何かによるのではなく、「神の力の働き」と「神の恵みの賜物」であるという(7)。そこには自分の努力や血統による誇りなどはなく、ただ、「すべての聖徒たちで一番小さな私」が(8)、「神の永遠のご計画」に沿ったものであり、このために召されたという確信をもって仕えていることを感謝しつつ告白していました。
パウロが牢獄に入っていることは、エペソの人々を落胆させるものであったようであるが(13)、しかしパウロは、投獄されていることがむしろ神の栄光をあわらしていくことになると希望をもって、エペソの教会の人々をも励ましたのでした。
14~21節は、パウロの祈りであり、この祈りはパウロのおかれている状況からの訴えでもあり、エペソの教会の人々に対するとりなしの祈りでもありました。その中心的な祈りは、神の御力によって強め、主の素晴らしを理解する力が増され、なお一層に主に栄光を帰していくことが出来るようにと言う祈りでした。
現代にあって、私たちはパウロの福音理解に立って、教会の宣教の在り方を改めて確認していきたいと思う。また、パウロはこの福音のために、それまでのキャリアーに執着するのではなく、一人の仕え人として召され、この福音宣教に従事していたパウロの謙虚さにも学ぶものでありたい。

主題 <神の和解の恵み>

聖書箇所 エペソ人への手紙 2章(2011年11月14日)

今日のみことば「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(14~16)

 1~10節では、パウロは、救われていない人間の状態と、その人間に対する神のあわれみと恵みを語っている。
パウロはかつてのエペソの教会の人々がどのような状態から救われたかについて改めて語っていく。かつては、死んでいた者であって(1)、空中の権威を持つ支配者に従って歩み(2)、肉と心の望むままを行なっていたために、神の御怒りを受けるのが当然の状態であった(3)。
しかし神のあわれみは、ご白身の御子を世に遣わされ、御子の十字架のあがないによって救いを完成された。パウロはこの救いのみわざを語る際に、二度までも神の「恵み」によると語り、恵みを強調している(5、8)。また、救われた者をご自身の作品とするばかりではなく、よい行いをもあらかじめ備えてくださったと教えている(10)。
 11~22節でパウロは、エベソの人々に与えられた和解について語る。
 まず、パウロは、異邦人であるエペソの人々は、神の約束の契約の観点から言えば無割礼の者であり、神もない除外されていた(11~12)。
 しかし、パウロが明らかにするのは、キリスト・イエスにあって、今はイスラエルと異邦人との間にあった隔ての壁は取り払われ、さらには、キリストの十字架は、神と人との間に和解をもたらしたということを強調して語りました。(13~16)
 パウロはこの和解の御業の証人としてイスラエル人、エペソ人のキリストにある交わり、教会の交わりがその恵みを明らかにしていることを語りました。異邦人も神の民とされたこと、また彼らが全体として、キリスト・イエスを礎石として、使徒と預言者を土台とする、主にある聖なる宮となったということを改めて教えられたのでした。(19-22)。

主題 <約束の聖霊の証印> 

聖書箇所 エペソ人への手紙 1章 (2011年11月13日)

今日のみことば「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」(13)

 使徒パウロはこのエペソ人への手紙を書いた時は囚人となっていました(3:1)。パウロはカイザリヤからローマへと送られ、ローマで軟禁生活を余儀なくされます。おそらくこの手紙はローマの獄中にあって書き送られたものと言われ、パウロの獄中書簡とも呼ばれています。
 パウロが書き送ったこの手紙の主題は一言で言えば、神による新しい共同体、教会について主眼をおいて書かれていると言えます。
福音はユダヤ人をはじめ、異邦人へも宣べ伝えられ、各地に主の教会が建て上げられていきました。しかし、それと共に迫害も増していきました。この手紙を書いているパウロ自身が囚人として扱われなくてはならい事態ともなっていました。
このような状況の中にあっても、この手紙にもあらわされているパウロは御国を受け継ぐ者とされていることに確信を覚え(11、14、18)、喜びをもってエペソの教会を励ましています。
特に注目したいことは、13節に「真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」と言い、「証印を押されている」という表現には少し、その時代の背景が伺えます。当時、囚人や奴隷の立場にあったものは、体に焼き印などの印を付けられるということがありました。その印が社会的な立場、あるいはその人の身分を示していくものとなっていました。しかし、パウロはこのような社会の価値観、身分、地位などによらない、神(聖霊)の証印こそが重要で、この証印が神の贖いの故に御国を受け継ぐ者とされている印であり、この証印を受けた者たちの群れである教会を力強く証ししたのでした。
神の召しによって御国を受け継ぐ光栄を見て、なお、「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(23)と語り、主の教会こそがあらゆる迫害の中にも前進していくことができることをエペソの教会の人々に語り励ましたのでした。今日も主の満たし、導きにあって歩みたいと願います。

主題 <新しい創造>

聖書箇所 ガラテヤ人への手紙 6章(2011年11月12日)

今日のみことば「しかし、主は、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」(15)

 生まれ育ったユダヤ教の世界でもぬきんでて熱心なパウロは、これまで割礼こそアブラハムの祝福を相続する唯一の生き方でした。しかし、すばらしいキリストの救いの全内容を悟り、これまで生涯をかけて歩んできたユダヤ教の律法から自由とされ、新しい創造の日々を歩むのです。
 パウロから見ると、割礼を受けるとか受けないと言うことがさして重要なことではないのです。
 だから、自分の行いが人よりも立派であるとか、劣れると言った評価から自由になれるのです。
 ただし、主にあって善を行うことが自分自身が刈り入れることになることを教えています。善を行う時に、失望が伴うのです。しかし、第一に、外見を意識せずに行うことが出来ます。それは、自分自身の新しい創造の仕事に携わる意識の革命があるからです。
 そこで、善をことに信仰のある人々に対して行うのです。それは信仰者を励ますつとめなのです。教会員に対して互いに善を行って祝福を互いに分け合いましょう。
 外見だけを意識する割礼を強調する人々よりも、自己を十字架につけて純粋に主を求めるクリスチャンこそ、アブラハムの祝福を示す機会を与えられるのです。
 大事なことが新しい創造、霊的な変化です。この世での成功や評価は空虚なことです。

主題 <自由を得させるために>

聖書箇所 ガラテヤ人への手紙 5章(2011年11月11日)

今日のみことば「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(1)

 キリストの十字架がもたらした大きな福音は、自由を与えられたと言うことです。自由がない過去の生活は、奴隷状態であると4章後半で述べられていました。神の国を相続できないだけでなく、せっかく与えられたこの地上の歩みが、奴隷根性のような貧しい歩みになるからです。
 13節では、福音の醍醐味が記されています。第一に、自由を得るために神から召される(コール)のです。第二に、肉の働く機会をしなくていいのです。第三に、愛をもって使える自由なのです。
 この歩みは御霊によって歩む生活です(16)。御霊に導かれた生活から、22-23節にある素晴らしい実を結ぶことになります。
 一方、肉的な生涯は、19節~21節に記される恥ずかしい結末なのです。
 キリストにつく者、キリストに明け渡す者は、自分の肉を十字架につけることが重要なのです(24)。信仰によって決断しましょう。また再びこの霊的高嶺から滑り落ちたときは、いつでも神のあわれみを信じて、恵みの座につくものでありたい。