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2011年11月23日 (水)

主題 <「アバ、父。」と呼ぶ>

聖書箇所 ガラテヤ人への手紙 4章(2011年11月10日)

今日のみことば「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(4)

 キリストの犠牲がもたらした想像を超える事実を記しています。かつては神なく、望みない罪人でした。その人々を支配していた者は、律法であり、律法に照らせば罪と不安と悲しみのみでした。神から裁かれることを恐れるのみでした。
 ただ、相続する者は、成人になって受け取るとパウロは言います。成人するまでの幼い時代の導く光が律法でした。この時代には、律法により、規則規則に振り回されていました。神を知らなかった時代はそうした生き方を繰返していました。
 しかし、キリストが来て、罪の贖いを成し遂げ、神の子どもとして生まれ変わり、聖霊に導かれて、神の律法を外見の形式ではなく、心からの愛をもって行えるものになりました。
 その象徴的な信仰の内容が、6節にある神を「アバ父」と呼べる特権です。これまで、神の前に罪意識があり、裁かれ、自分が祝福を受けるに価しないと思っていました。ところが、キリストが来られて、神への道を開きました。ヨハネの福音書14章6節にあるとおりです。
 神を恐れないで、「アバ父」と呼べる幸いを今日心に刻みましょう。何という安息、喜び、希望でしょうか。祈りの生活は楽しく、教会生活こそすべてに勝る幸福です。みんなで一緒に、神を父と仰ぐ交わりがあるのです。

主題 <イエス・キリストに対する信仰によって> 

聖書箇所 ガラテヤ人への手紙 3章(2011年11月 9日)

今日のみことば「しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。」 (22)

キリストが私たちのためにのろわれた者となってくださった(13)と記されています。こののろわれた者となることが、どれほど困難な事実かを改めて知らなくてはなりません。
 しかし、ローマ人への手紙11章32節と同様に、この箇所でも、聖書の神髄がはっきりと記されている。内容は、神のあわれみに焦点が当てられたローマ人への手紙に比べ、ガラテヤ人への手紙では、信仰に光が当てられています。
 この信仰が、約束されていた聖霊を受ける方法であることを述べています。アブラハムも約束を信じて受け取りました。
 ほんとうの信仰が明瞭になるまでの間、律法は人々を神に連れて行く働きをしていました。そして、イエス・キリストの十字架が現わされて、律法の役割は終えることとなりました。
 キリストの十字架のバプテスマを受けた者は、キリストを身に着ているのです(27)。このようにキリストの救いが来たことによって、信仰を持って受け取ることこそ今日のなすべき働きです。
 信じる者に、聖霊を満たし、主のかたちが見られてくるのです。

主題 <キリストが私のうちに生きておられる> 

聖書箇所 ガラテヤ人への手紙 2章(2011年11月 8日)

今日のみことば「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(20)

神の律法に生きることが人間としての正しいあり方ですから、この律法に生きなくてはならないと考えます。神の前における熱心とは、この律法主義に傾斜しやすいのです。しかもユダヤ教の世界であるエルサレムから来たキリスト教に熟知していない人々が信仰を支配しようとします。
 この律法主義の執拗なまでに攻撃的な生き方は、クリスチャンにとっても絶えず問われているのです。神の前に熱心に歩もうとするほど、律法に支配されて生きやすいのです。祈りや奉仕において、肉的に仕上げてゆこうと思いがちです。
 自己を十字架につけて、キリストが私の中で生きてくださる事こそ、勝利と安息のたましいの持ち主となる。心の中に、この平和を持たずには、十分に主を喜ばせることはできません。
 私がこの世に生きるのは、この私を愛してくださった方への愛の動機以外にありません。
 律法によって律法に死ぬ(19)という不思議なことばに心を留めたい。神の律法に照らし、全く行い得ない。この事実を認めることです。ここから、キリストが生きてくださる秘訣がはっきりとしてくるのです。

主題 <救われた福音> 

聖書箇所 ガラテヤ人への手紙 1章(2011年11月 7日)

今日のみことば「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。」(6)

この手紙は、使徒のパウロの初期の頃と思われます。自己紹介も、率直で、内容も率直です。ガラテヤはパウロがアンテオケ教会から送り出されてはじめに宣教した地域です。次々と素晴らしい信仰に導かれて来たのです。主イエス・キリストの十字架の福音を信じるのみで救われたのです。この大きな神の愛に感動し、あふれる喜びは、目が不自由であったパウロのためなら目をえぐり出してさえ与えたいと思ったほどだったのです(4;15)。
ところがその教会にいたユダヤ主義者たちが、律法を土台としなくてはアブラハムの祝福を受けることができないと教えていたのです。
パウロは、救われた大きな喜びを見失ったかに見える信徒たちに対して、歯に衣を着せないほどの熱い思いを持って福音そのものを熱心に語ります。ところどころ激した表現も見られます。純粋なキリスト教信仰を、曲げて律法的な生き方の枠にはめてゆこうとする誘惑はいろいろあります。
福音と律法の問題について学ぶ場所です。律法はあるべき神の命令を明瞭にします。しかし、人間はこれを完全に行うことが出来ないのです。そこで、イエス・キリストが神の義を完全に行われ、信じる者を義としてくださるのです。
救われた福音のいのちを、他の教えに決して流れてはなりません。神のこの立場と永遠の生命、義とされた信仰を握りしめましょう。

2011年11月 3日 (木)

主題 <完全な者となりなさい> 

聖書箇所 コリント人への手紙第二13章(2011年11月 6日)

今日のみことば「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。」(11)

 パウロは三度目のコリント訪問を前にして、一つのことを心に決めていました。もしまだ罪を犯している者かおり、証人によってそれが確認されたならば、いわゆる戒規を、容赦なく執行しようという決意でした。戒規の目的は、罪を犯している人が、その罪を悔い改めて神に立ち返り、信仰の道を歩むように励ますことにある。パウロはこれまで、罪を犯している人たちに警告してきたが、彼らはパウロの警告をキリストからの警告として真剣に受け取っていなかった。そこで今度は、キリストの警告である証拠として、処罰を断行することを前もって述べている。
私たちには自らの吟味が必要である。人から指摘される前に、各自が自分自身の心と歩みを振り返って、罪がないか、主のみこころからはずれていることはないかを点検することは、キリスト者の義務である。キリストを内に宿している人は、そうすることができるはずである。自己吟味こそ、聖化の道をたどるために不可欠である。
パウロはキリスト者の目標を明らかにしている。積極的な表現をすれば、「完全な者となる」ことであり(9、11)、消極的な表現をすれば「どんな悪をも行なわない」ことである(7)。キリスト者はすべてにおいて、神のみこころにかなう、正しい行ないをするように召されている。パウロは、彼らがこの目標に向かって歩むことによって、彼が彼らに厳しい処置をとる必要がないことを願っていた。この目標に向かって歩むとき、愛と平和の神が共にいてくださると約束されている。
 コリント人への手紙第二を見てきた中で、改めてパウロがコリント教会の信徒たちを愛し、時には厳しく訓戒してきたが、このパウロの関わり方のうちに練られたキリスト者の姿を見たように思うのです。私たちもキリストにあって、「完全な者」になりなさいとのみことば応答する者、従う者とならせて頂きたいと思います。

主題 <弱さを誇ること 2>

聖書箇所 コリント人への手紙第二12章(2011年11月 5日)

今日のみことば「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9)

 パウロはある体験を通して、弱さを「恵み」という新しい視点から見直すようになっていたこが伺えます。主に仕える彼に、弱さは、なくてはならないものとなっていました。
パウロは第三の天(パラダイス)まで引き上げられるという(2)、特殊な体験をしたことが語られています。それは、人の言葉ですべてを説明できない神秘的な体験だった。それは「主の幻と啓示」でした。普通、特殊な素晴らしい体験をすると、だれかに話したいと思うのではないでしょうか。しかし、パウロはこの体験を心にしまっていました。使徒の働きにも、パウロの他の書簡にも、この体験のことは書かれていない。なぜパウロはこのことについて、積極的に語らなかったのだろうか。
素晴らしい体験をすると、その体験を誇るようになり、さらには体験した自分を誇るようになる傾向が人にはある。パラダイスを垣間見たことは、あまりにも素晴らしい啓示だったので(7)、パウロといえども高ぶる危険があったと考えられたと思われるのです。このような特別な経験を語れば、周囲の人もその人を過大評価し、高ぶりを助長することもあり得ました(6)。そこで神は高ぶりから守るために、パウロの肉体に一つのとげを与えられた(7)。そのとげが何であったかわからないが、彼の肉体に相当な痛みを与え、生活と宣教活動を制限するものであった。とげから来る痛みと不自由は、パウロを高ぶりから守る役割を果たしたと言えます。
主がとげを取り除いてくださるように祈り求めたパウロに、主から意外な答えが返ってきた。それは、神の恵みは今のままで充分であること。キリストの力は弱さのうちに完全に現れるというものであった。主の答えは、弱さを見る新しい視点を与えた。弱さは神に仕える妨げではなく、キリストの力にあずからせるものであった。これは、第三の天まで引き上げられることに優るとも劣らない、新しい理解だったのでした。

主題 <弱さを誇ること 1>

聖書箇所 コリント人への手紙第二11章(2011年11月 4日)

今日のみことば「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(30)

 この世は強さと力を称賛し、追い求め、誇ります。しかし、キリスト者は強さや力の対極にある弱さを、新しい視点から見ることを教えられることによって、弱さを誇る者とされているということをさらにパウロは展開して語りました。
22~23節で、コリントの教会の人々が育ちやユダヤ人としての血統、また立場などを誇り、自慢していたことに触れています。パウロもそのようなものを誇ろうとすれば、充分に誇ることができました。彼は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、きっすいのヘブル人でありました。しかし、パウロはそのようなものを誇ることは愚かであると言いました(21)。
また、偽使徒たちは自らをキリストのしもべであると主張したようであるが、パウロは「私は彼ら以上にそうなのです」と語っています(23)。パウロは、キリストのしもべであるしるしとは、キリストとその福音のために受ける苦しみであると考えていたようである。パウロは福音のために何と多くの苦難に遭ったことだろう。投獄、むち打ちの刑、死に直面したこと、様々な難など、私たちは圧倒される。パウロは、偽使徒たちとは比較にならないほどの苦難を、経験したのである。
このような外からくる苦難のほかに、パウロには諸教会への「心づかい」があった(28)。この世にある教会は絶えず試みられ、敵の攻撃にさらされている。弱さが露呈し、つまずきが起こることもある。諸教会の必要を目の当たりにしながら、パウロは自らの弱さを自覚したことだろう。しかし、彼は自分の弱さを誇ることを学んだ。弱さが、パウロを、キリストと結びつけてキリストのしもべとし(23)、弱さが彼を、キリストの教会と結びつけていることを知ったのである(28、29)。
苦しみの中にある弱さを消極的にとられるのではなく、むしろパウロの経験したように、キリストに結び合わせられるめぐみとして積極的に受け止め、弱さを誇ることができたら感謝ではないでしょうか。

主題 <誇る者は主にあって誇りなさい>

聖書箇所 コリント人への手紙第二10章(2011年11月 3日)

今日のみことば「誇る者は、主にあって誇りなさい。」(17)

テトスの報告によって、大多数のコリントの信者たちは悔い改め、パウロを支持するようになっていました。しかしまだ少数ではあったが、パウロの使徒としての権威を認めず、コリント教会を支配しようとしている人たちがいました。彼らの非難は、パウロは使徒として弱々しい、人間的な打算や考えによって行動している、最初の十二使徒ではないのでキリストに属する使徒ではない、というも批判でした(1、2、7、10)。
このような非難がコリントの教会に悪影響を与えると考えていたパウロは、再び自らの使徒性と主張していきます。パウロはキリストの使徒として召されたことを確信し(7)、主の教会を立てる権威を授けられていると主張する(8)。また、パウロはこの世の「思弁と神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶり」と戦う霊的な戦いの中にあったことに触れて、この戦いは、「肉に従って」、「肉のもの(武器)によって」戦うのではなく、神の力による戦いをしていくことを語っていきました(3-6)。
パウロは批判者たちと自分を同列において優劣を競う、知恵のない愚かな比較をするのではなく(12)、神がパウロを使徒として召し、彼にコリント宣教をゆだね、教会を建てる働きをゆだねられていることこそ、パウロの正当な誇りでありました(13)。
パウロはあらゆる非難されることばの中にも、忠実に主の教会の建てあげのために労してこられたのは、主からの確かな召しにあったことがよく分かります。そして、それはどんなに弱い中にあっても、しっかりとした土台であったということができます。
パウロは自らの学識など誇れるものはたくさんあったかもしれません。しかし、むしろ自らの罪深さ、弱さを告白し、そのような者を救い、今は福音宣教のために召して下さったことを主にあって誇っている姿に、キリスト者としての誇り、その意味を示してくださっているのではないでしょうか。

主題 <神は喜んで与える人を愛してくださる> 

聖書箇所 コリント人への手紙第二 9章(2011年11月 2日)

今日のみことば「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」 (7)

マケドニア地方の教会にあっていち早く、エルサレムの貧しい聖徒のために献金を始めたコリント教会は、諸教会に良い影響を与えました(2)。そのような中で具体的に献金をささげていく上で重要なことを確認するように勧めました。
パウロは献金を、種蒔きと刈り取りにたとえて教えられました。種蒔きと収穫は、世界中で見られる営みである。ここでは、蒔くこととは献金することであり、刈り取りとは神が霊的祝福を与え、物質的必要をも満たしてくださることとして教えられました(8)。種を蒔かなければ、刈り取ることはない。一般的に多く蒔けば多く刈り取り、少し蒔けば少し刈り取ることになるが、これは献金にも適用できる原則として示されました。
また、献金は「強いられて」するものではないことを教えられました。献金は各自が「心で決めたとおりに」するもので、外から強制されるものではない。献金は自発的に「自ら進んで」するものである(8:2)。パウロはコリント教会に献金することを命令していたわけではありませんでした(8:8)。彼らが進んで始めたことを成し遂げるようにと、励まして勧めています。時として献金を献げていくときに奨励する人の働きが必要なことがあり、具体的な祈りと共に励ましていくことが重要であることを教えてくれています。
また、献金はいやいやながらささげたり、「惜しみながら」するものではないことを教えられました(5)。献金するときに、私たちの心にある、神への感謝と喜びを確認することはたいせつなことである。
また、献金は「義の実」(10)と言われている。種を蒔く人は、収穫したものの中から、次に蒔く種を充分確保することができる。同様に神は、献金という行為をを祝福して、さらに豊かな感謝と善行へと導き、ささげる者の義の実を増やしてくださるのである。
 改めて、私たちも主に献げる献金について確認したいと思います。

主題 <惜しみなく施す富> 

聖書箇所 コリント人への手紙第二 8章(2011年11月 1日)

今日のみことば「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」(2)

私たちは交わりにおいて、自分が受けることだけを求めて、与えることを忘れてしまうということがないだろうか。
マケドニヤの教会は、激しい試練による苦難と極度の貧困状態にあった(2)。彼らが援助を求めても不思議ではない状態であったとも言えます。しかし、彼らはエルサレムの聖徒たちの困窮を耳にした時、彼らを支える交わりに加わりたいと熱心に願ったことが(4)、パウロによって指摘され非常に賞賛している。そして、彼ら自身の乏しさをかえりみず、あふれる喜びをもって、惜しみなく自ら進んで力以上の援助金をささげた(2、3)。この行為は、彼らの神への献身から出ていたことが触れられている(5)。このように行動をいち早く起こしたのがコリント教会でした。
しかし、この具体的に始った支援が何かの理由で滞っていたようである。そこでパウロは、マケドニヤの諸教会のことを紹介して、コリントの兄弟たちが、エルサレム教会への献金をし遂げるように勧めている。彼らがもう一度初心に返って、この恵みのわざを完了することは、彼らの益になることでもありました(10)。また、困窮している教会を助けることは、私たちを富ませるために、あえて貧しくなってこの世に来られたキリストの恵みを受け、証しする教会にとってふさわしいことであることを語り勧めました(9)。
きょう援助を受ける教会が、明日は援助する教会になり、きょう援助する教会が、明日は援助を受けることになるかもしれない。いずれにしても、互いに支え合い、交わりが築き上げられることが、今日の時代にも問われているのではないでしょうか。