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2011年11月 3日 (木)

主題 <神のみこころに添った悲しみ> 

聖書箇所 コリント人への手紙第二 7章(2011年10月31日)

今日のみことば「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」(10)

パウロはマケドニヤに着いた時、パウロの心は安らぎがなく、戦いと恐れでいっぱいで、気落ちしていました(5、6)。その理由は、テトスがまだコリントから帰ってきていないことと、テトスに託したコリント教会への手紙をコリントの人たちがどのように受け止めたか、わからなかったからでした。しばらくして、テトスは朗報を持ってマケドニヤにるパウロのもとへ帰ってきて、テトスの報告を聞いて、パウロの不安は一瞬にして解消し、彼は神から深い慰めを受けたのでした(6、7)。パウロはこの慰めを受けたことをコリント教会の信徒たちに親しみをこめて、パウロは以上に喜んで報告している。神は今も、気落ちした者を慰めてくださるお方であることを改めて覚えたい。
テトスがパウロに伝えた報告によると、コリントの人々はパウロが涙を流しながら書いた厳しい訓戒の手紙を読んで、最初は悲しんだけれども、その後に、自分たちの過ちを認めて悔い改めたというものでした。コリント教会の中にあったさまざまな問題は人々との争い、分派へと発展する程の混乱となり、教会のうちにある罪を露呈する程の悲しみとなりました。パウロはその悲しみを「神のみこころに添った悲しみ」と呼んでいる(10)。そのような悲しみは、救いにいたる悔改めを生じさせ、そして、その悔改めは教会に熱心を起こさせ、教会から罪を取り除かせ働きとなったことを見ました。コリントの教会に起こった悔改めは、パウロにとって何よりの喜びとなった。神のみこころからはずれたために活力を失った教会の霊的再生と刷新は、いつも神の民が罪を悲しむことから始まり、悔い改めることによって実現するということを覚えたいと思います。
最後に、パウロが神の慰めを受けるために、テトスは大切な役割を果たしたことに注目したい。神の慰めは往々にして忠実な神のしもべたちを通してもたらされるものである。テトスはパウロの誇りでした(14)。
私たちも教会における交わりにあって、忠実に仕え、神のみこころに添う歩みをさせて頂けるように祈ろう。

主題 <今は恵みの時、今は救いの日です> 

聖書箇所 コリント人への手紙第二 6章(2011年10月30日)

今日のみことば「神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2)

 パウロはこれまで、自分の置かれてきた状況、神さまに取り扱われてきたことごとを率直に語ってきましたが、この6章以降はコリント教会の信徒の方々に勧めをしていきます。
 1節「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。」と勧めました。「神の恵みをむだに受けないように」という表現は、一見、コリントの教会の信徒たちに対して皮肉にも、失礼にも聞こえる表現であったかもしれませんが、しかし、パウロが伝えたかったことは、何よりも今キリストにあって救われているこの恵みを自覚し、この福音にふさわしく生きるように勧めたかったからでした。12節に「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。」と指摘されているように、コリント教会内にあった問題は、キリストの福音以外に、異教やさまなざな習慣を取り入れていくというものであり、それを主張し、さばきあい、本来のキリストの福音そのものを変えてしまうようなまでに愚かな論争がありました(15)。
 パウロは改めてキリストにある救いの恵みを確認し、キリストにあって生きるというキリスト者の根本的姿勢を確認するように勧めました。それが「神の恵みをむだに受けないように」という勧めであったのです。キリストの贖いはすべての人のためになされた御業であり、この恵みは多くの人と共に分かち合われるものであることを今日に私たちも覚えたいと思います。この救いの恵みを私の隣人と共に分かち合うことができるように、共に「恵みの時、今は救いの日です。」と言うことができる歩みとなることができるように祈っていきたいと思います。

主題 <キリストのうちにあるなら>

聖書箇所 コリント人への手紙第二 5章(2011年10月29日)

今日のみことば「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(17)

 パウロはこの地上において歩む中で、「天にある永遠の家」(1)と言っているように、天の御国を見上げて希望をもって歩んでいりたことが伺えます。パウロはその御国につながっている「その保証として御霊を下さいました。」(5)と言い、さらなる確信が与えられて歩んでいたことが分かります。さらには、「確かに、私たちは見ゆるところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(7)と言い、このことばはパウロ自身の確信の伴った告白でもあり、さらにはコリント教会の信徒たちに訓戒するように勧められたことばでもありました。このようなパウロの姿勢に、今日の私たちも学ばなくてはならない面が多くあるのではないでしょうか。そして、パウロがそうであったように、苦しみの時にこそ、天の御国を見上げ、信仰によって前進していくことが出来るように祈っていきたいと思います。
 パウロは5章の後半で、キリストのものとされ、キリストにあって生きることの恵みを思い振り返るように語っています。かつてのパウロは律法に精通し、自分は神の選びと救いにあずかっている者という自覚があったが、しかし、それはいつしか人間的な標準(16)で救済を理解するという、むしろ本当の救いには至らないことに気づかされていき、それは復活の主にお会いしてから、さらには御霊なる神の働きによって真理が示されていく中で、キリストの贖いこそが罪の赦し、真の神との和解をもたらされることを確信に至りました。今、パウロはこのキリストの和解の使者として召され、この福音に仕える者とされたことを改めて確認するように語っています(20~21)。
 キリストにあって生きる者の姿はパウロが言っているように、すべては「キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(17)という一言に尽きるのではないでしょうか。今からも新たな歩みを備えてくださる主に感謝し筒歩ませて頂きたいと思います。

主題 <土の器の中の測り知れない力>

聖書箇所 コリント人への手紙第二 4章(2011年10月28日)

今日のみことば「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(7)

 パウロは2章に続き、自己推薦をしている。パウロは福音宣教により教会が建て上げられていく、この中に御霊の働きがなされ、人々がキリストにあって造り変えられていくという働きを見ることを語り、このために召されていることをパウロは自己推薦しました。パウロはその働きに召された者であることを「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。」(5)と言いました。
 7節以降では、この福音に仕えるパウロは弱い、もろい存在であること「土の器」のような者であることを語り始めます。主に仕える働きはさまざま苦難を経験することがあることに触れますが、しかし、それを悲観的には受け止めていなかったことが分かります(8~12)。苦難に遭うと、多くの人は戸惑い恐れ、主に従うことから後退していってしまうことがありますが、苦難を、キリストの素晴らしさを知る機会とする人は、これにまさる幸いであることを覚えたい。まさにパウロはその幸いを見続けてきた人だったと言えよう。パウロは、土の器にすぎないような私たちであるが、そのうちには神の栄光を見る知識に満たされた、測り知れない力が与えられている(6~7)と言い励ましを与えている。
 だから、パウロは「勇気を失わない」(1、16)と2度も言い、全幅の信頼を神に置き続けました。16節「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」と言われています。パウロはからだの衰えを感じ、それは私たちも同様で、外なる人は衰えていく者である。しかし、これに反比例して内なる人は日々新たにされていくことがパウロを支えていたのである。主との交わりを深め、成長し、キリストに似せられていくまで変えられていく。これにまさる祝福はないことを覚え、今日も一歩前進させて頂きたいと思います。

主題 <御霊の働き>

聖書箇所 コリント人への手紙第二 3章(2011年10月27日)

今日のみことば「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(18)

3章では、パウロの自己推薦について書き始められています。当時、パウロに推薦状がなかったということで、パウロを非難した人がいたようである(1)。しかし、パウロは「私たちの推薦状はあなたがたです。」(2)と言いました。つまりは、コリントの地に福音を語り、そのことによって形成されたコリント教会が自分を推薦していると言いました。パウロによる福音宣教の結実として教会が建て上げられたことがその証拠であると示したのでした。
 そして、パウロは御霊の務め、働き(8、18)について語り出しました。栄光ある御霊の務めとは、キリストの救いの福音を伝える働きを指し、かつて律法には栄光はあったが(7)、律法では人を罪に定め、死に導くのみで、救うことができなかった。しかし、福音は御霊によって人を救いに導き、義とし、生かしてくださった。この御霊の務めにパウロは召されていることを示されました(5)。さらに、律法は、人の心にかかったおおいを取りのけることはできなかった。この心のおおいが取り除かれるとは、人が御霊によって新しく生まれることで(ヨハネの福音書3:3参照)、御霊によって生まれた人は御霊にあって、「主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」とあるように、造り変えられていくことであることを教えられました。
 私たちは主を信じ、神の子とされる特権を頂いているが、しかし、なお神の子にふさわしくない一面ももっている。そのような私たちは、絶えず、御霊の働きの中で、取り扱われ主と同じ姿にまで変えられていく必要がある。この歩みが聖化の歩みであり、日々の歩みの中にある恵みの営みでもあることを覚えたいと思います。

主題 <キリストのかおり> 

聖書箇所 コリント人への手紙第二 2章(2011年10月26日)

今日のみことば「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」 (15)

 パウロはこの第二の手紙を書き送った動機について1~4節で語っている。それは、パウロによる手紙や訪問によりコリント教会の信徒たちを指導していくことが、かえって悲しみと不信感を募らせる結果となってしまったことを悲しみ、パウロが厳しく指摘したのは「あふれるばかりの愛」(4)によるのだと弁明している。過ちや問題を見過ごすことが本当の解決にはならない。時としては、過ちや問題から目をそらさずに向き合い、悔い改めをもって前進していくことが必要なのである。正しく理解していくためにも、助言を与え、戒めて指導してくれる人の存在は、その時は痛みが伴ったとしても、しかし、振り返ればそれは有益であったと感じることの方が多いのではないでしょうか。パウロは愛をもって、時には厳しく対処していくこととなったことをコリントの教会の人々に伝えたのでした。
問題を隠すのではなく、悔い改めをもって向き合い、対処していくこと、さらには、この問題を共有する者たちも互いに受け入れ合い、赦し合うことがさらなる益となるということを覚えたいと思います(7、10)。
パウロは宣教の働きやコリント教会とのかかわりの中で失意、落胆している姿が見られた(12~13)。しかし、パウロはキリストにある勝利に導かれているという思いに馳せて、希望をもって歩もうとしていたことを覚えたい(14)。そして、パウロは「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」(15)という自覚をもって働き続けていたことを私たちも改めて覚えたいと思います。
主のとりあつかいの中に、罪を悔い改めていく、痛み、悲しみを経験するも、キリストにある交わり、教会の交わりの中で、さらに赦された者として生かされている恵みを感じつつ、主にある成長を頂いて歩むことが出来るように、人々の前にキリストにある者として証しの伴った歩みが出来るように祈っていきましょう。

主題 <苦しみを耐え抜く力を与えられる慰めの神> 

聖書箇所 コリント人への手紙第二 1章(2011年10月25日)

今日のみことば「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(4)

パウロはコリント人への第一の手紙を書き送った後、コリントに短い期間滞在し、さまざまな問題の解決のために働きかけるが、良い解決が与えられず、その後、悲しみの中で書き送った手紙(2:4、現在は失われている手紙となっている)を送るが、しかし、思ったほどの改善がなされなかった。そのような経過を経て、この第二の手紙を書き送りました。
 パウロはまず、コリントの教会の信徒たちにパウロの会った苦しみについて報告しました(8~9)。それは、死を覚悟するほどのことであったことをパウロは語っているが、これは使徒の働き19章23節以降に記されているデメテリオという銀細工人のパウロに対する批判を発端に、ついにはエペソの町の劇場に群衆が押し寄せるほどの大混乱となったことが記されている。
そのような大きな迫害を経験したパウロであるが、神の助けにより救われたことを報告している(10)。そして、将来にわたって主に希望をおいて宣教の働きに出ていたことを伝えています(10)。そのようにパウロが言えた理由は、「神は苦しみのときに、私たちを慰めてくださいます。」(4)と言うように、非常に困難な中にあっても、神は慰めてくださる。その慰めは、苦難に耐え抜く力を与えてくださるという慰めに満ちた神が臨まれるからであることをパウロは教えられました(6)。
パウロ自身、非常に大きな苦しみを通されましたが、なおコリントの教会の信徒たちにも及びかねない迫害を覚え、その苦しみの中に励まし、前進していくように祈るようにこの手紙を書き送ったことが伺えるのである。ここに、パウロの牧会者として配慮ある人であったことを見ることが出来ます。おそらく、コリントの教会の人々との関係に多少のギクシャクする関係があったと思われるが、しかし、パウロはコリントの教会の信徒の方々との協力関係を大切にし、コリントの教会の信徒たちのために最善の助言を与え続け、教会が建て上げられることを祈っていた姿に学びたいと思います。

主題 <いっさいを愛をもって行う> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一16章(2011年10月24日)

今日のみことば「いっさいのことを愛をもって行いなさい。」(14)

昨日の箇所において「キリストは勝利を与えてくださいましたとありました。ですから、いつも主のわざに励みなさい、労苦は主にあって、無駄ではないから(15;57-58)」と、パウロは実際的に励まし、さらに心の行き届いた牧会者として、ここで具体的な指示を与えています。
1,お金のことに配慮している(1~4)
 主を信じるようになったギリシャ人やユダヤ人のクリスチャンが信仰のために迫害と飢餓のために困窮しているので、実際的な助けを与えて欲しいと願っています。
2,時間のことに配慮している(5~9)
 冬が近づいて、多くの仕事をしなければならないマケドニヤや、アジヤの諸教会は、みなパウロの配慮を必要としていました。その中で奉仕の要請と機会が適切に調整されるように綿密な計画を作っています。
3,人々の事を配慮している(10~20)
 人々からの友情、忠実さを心得、その人達の熱心な奉仕について高く評価しています。そして、彼らの評判を守ること、彼らの計画への支持、主のための働きについての評価と、その責任をもって人々へ服従すすめなどをしました。
 キリスト教会の働きは、一人では出来ません。愛による協力者が必要です。私たち一人ひとりが自分だけではなく、協力者となりたいと心から願うべきです。

主題 <キリストへの希望> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一15章(2011年10月23日)

今日のみことば「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れなものです。」(19)

 パウロは、復活という大きな主題に3つの角度から述べています。
1,歴史的(1~7)
 イエスは私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目によみがえられた。これは神話や作り話ではなく、確固たる歴史上の事実で何百人もの人達によって証言されていることを証言します。
2,個人的(8~11)
 パウロは、この主との個人的な出会いを経験していました。それによって歴史的事実はパウロの経験の上でも事実となったのです。
 私たち自身はどうでしょうか。
3,教理的(12~19)
 復活はキリスト教信仰の礎石です。復活がなかったら、
 1、私たちの信仰は空虚で無意味なものとなってしまいます。
 2、私たちの宣教は無駄なものとなってしまいます。
 3、私たちの証しは偽りとなってしまいます。
 4、私たちの罪は許されていないこととなってしまいます。
 5、私たちのよみがえりもなくなってしまいます。
ですから、すべての人の中で最も哀れむべきものとなってしまうのです。
今日一日、主のよみがえりの力を信じ、経験しつつ生きていきましょう。

主題 <愛を追い求める>

聖書箇所 コリント人への手紙第一14章(2011年10月22日)

今日のみことば「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」(1)

13章で愛がなければ一切は無益だ、妨げになる、邪魔だと語ってきた。そして当時のコリント教会にあったのは異言の問題でした。聖霊によって与えられる賜物としての重要な、愛をこそ追い求めなくてはならないというのです。
「あなた方は御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。」(13)と霊の賜物が教会の益のために用いられることです。だれも説き明かす人がいなければ、異言を話すことは無駄であると言っています。御霊の賜物は教会の徳を高めるためにあるからです。異言が自分を高め、特殊な信仰経験を見せ他の人を当惑させ混乱におとしいれる危険がありました。
 徳を高めるとは、キリストを知り、自らを成長させ、人々にキリストがどの様なお方であるかを知らせることです。聞く人の徳を高めることができないことはしないのです。教会において、自分だけ分かる難しいことば、宗教用語を用いず、わかりやすく証しし、祈り、賛美して共に神様を礼拝したいものです。
「それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」(33)神の霊的な賜物を与える神は秩序と平和の神なのです。私たちはこの方に従うとき、集まりは整えられ、前進していきます。突出した霊の働きや賜物を求めるよりも、あらゆる祝福の源泉である神を慕い求めることによってこそ、調和のあるクリスチャンに成長する事ができるのです。