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2011年11月 3日 (木)

主題 <いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一13章(2011年10月21日)

今日のみことば「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(13)

 パウロは愛を、聖霊なる神の賜物であると語っている。クリスチャンの愛は倫理や修行によって生まれるものではなく、神の賜物だという。13章においての愛の教えは、キリスト教の愛がどんなものであるのかを明らかにしている。
まず初めの3節では「愛がないなら」と言う繰り返しでつづられている。どんなに素晴らしいと見えること、コリント教会で尊重されていた異言や預言、あらゆる奥義、知識、山を動かすほどの信仰があっても、自分の財産を貧しい人に施し、自分の体を焼かれるために引き渡しても、愛がなければ何の値打ちもないと言っている。
そして、真の愛はどのようなものかを4節から語っている。愛は寛容である。15の愛の姿が私の中に形つくられるものなのです。決して自分と別なところで思考したり、想像を描いたり、誰かの中に愛があることを期待したりすることではない。また自分にはこうした愛に生きることはないのだと思うことでもない。
聖霊によって神の愛が私たちの心の中に注がれていることをまず深く信じることです(ローマ人への手紙5;5)。聖霊は喜んで私たちの心の中に恵みを注ごうとしています。
“神の愛”によって救われ、内には聖霊なる神が内住して下さっている。だから、本来の私たちには愛はないが、神と共に歩み、神に愛を求めるなら、神から賜物として愛をいただくことができるのである。そして、今度は愛を与えることができるようになるのである。教会の交わりの中で、神の愛をお互いに分け合うことができたら幸いである。実現していく姿を今日は思い描き、進み始めよう。

主題 <聖霊によって歩む>

聖書箇所 コリント人への手紙第一12章(2011年10月20日)

今日のみことば「神の御霊によって語るものはだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(3)

パウロは「ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。」と強調している。
 一つは、2節は生まれながらの状態では偶像礼拝に走らざるを得ないこと。二つめは、3節の生ける神を礼拝するようになるのは聖霊である神の力によるということである。
 自分の力で決心して神を信じ、自力で信仰に入ることができると思いがちである。また、自分の力で伝道することによって相手に信仰を持たせることができると思いやすい。しかし、神を信じる信仰はすべて神が与えて下さる賜物なのである。
エペソ2:8「あなたがたは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とある。そして、信仰の原動力が聖霊なる神の賜物であるだけでなく、信仰生活すべての原動力は神からくるものなのである。
 クリスチャンすべては、神からの賜物を受けている。それは、7節にある「みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです」。仕えること、祈ること、励ますこと…私たちに与えられている賜物を、教会の中で「みなの益となるために」用いていきたい。
27節には「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」と教え、体にはそれぞれ多くの部分があり、異なった働きをするように、教会にも同じような性質がある。
 1,一致(13)2,多様性(14)3,活動がなされる。体と同様に、教会には主要な目的がある。それは神の栄光のため、神の国を広める助けとなる道具として立てられている。キリストの体の一部として、全体のことを考え、自分のすべきことをしていこう。

主題 <パウロをみならおう>

聖書箇所 コリント人への手紙第一11章(2011年10月19日)

今日のみことば「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」 (1)

コリントでは、公の礼拝では女性は頭に布をかぶる習慣があった。それは邪悪に満ちた都市コリントでは身を守るためにも役立つものであった。かぶりものをしない女性は、大抵が神殿娼婦であったり、髪を剃っているのは奴隷か、罰をうけた女性だったからである。
 しかし、自由を求める婦人たちは、異教の女預言者のまねをして、こうこつ状態で預言をしてかぶりものをしなかった。こうした当時の習慣の中で原則を教えているのです。
1,神の創造の業には秩序があること、私たちは神の造られた枠組みの中で活動し、神のパターンによってお互いが建てるべきである。
2,創造の秩序を現実の生活に守ることは、圧力によってできないことである。それは調和ある、相互依存によって実現すべきである。
  その原則を特に男女の関係にあてはめている。(11、12)「主にあって」すべてを変える力を持っている。
3,私たちはいつも主のことを思い、主の栄光を多くの人に知らせるためにできることがある。
   神は秩序の神であるから、礼拝は秩序を守るためにおごそかに行うべきなのである。 
「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」(25)最初の主の晩餐のことを想起し、意義を知り、ふさわしい行動をするように戒めたのである。主の晩餐は、第一に、主の犠牲と愛を記念するため(24、25)第二に、しるし(26)であり、私たちが主を愛し、命令に従うことを示す方法である。

主題 <試練に耐える道> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一10章(2011年10月18日)

今日のみことば「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練にあわせるあわせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練と共に脱出の道も備えて下さいます。」(13)

イスラエルの人々がエジプトから救い出されたということは、すばらしい経験であった。神は、紅海を分けて海を陸のように歩くように渡らせ、日ごとに食物を与え、40年間彼らを荒野で導かれた。彼らはすばらしい特権と機会を与えられたのである。しかし、それにもかかわらず、彼らは罪に陥った。偶像礼拝し、不道徳なことをし、不信仰の罪を犯し、つぶやいたのである。特につぶやきの心は聖書の中では最悪の罪の部類に入れられる。荒野を旅するイスラエルの民は、繰り返し彼らの指導者につぶやくことによって、神に罪を犯した。その結果、滅ぼす者に滅ぼされてしまうのである。
 この歴史から学び、警告として歩むべきであることを、パウロはコリントの教会の人々に、また私たちに教えている。
 そして、神は試練の中で真実な方であるから、私たちが倒れることがないように支えてくださると教える。耐えられなくなったら、逃れるべき出口を備えてくださるのだ、と励ましている。
 33節では、「私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。」とパウロはこの章で、偶像礼拝にささげられた肉を食べるべきか、否かという問題に帰っている。クリスチャンは、自分の自由だけではなく、他の人がそれによってつまずくおそれのある時、気を配ることを決して忘れてはならないのである。
 私たちの生活の原則は、「すべて神の栄光をあらわすようにする」ということである。神の栄光があらわされるため、より多くの人が救われるために、自分の利益を求めず、他の人のために、神のために生きていきたい。

主題 <福音のために共有する生活> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一 9章(2011年10月17日)

今日のみことば「同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。」(14)

主の奉仕者への正しい報い方を教えております。むかし、レビ人たちは、十二部族の中から選ばれて、神の奉仕のために専念するように取り分けられ、ほかのイスラエルの民はおのおの十分の一をもって支えたのである。
 同じように、新約聖書の時代には福音に奉仕する者たちを支えることが大切であり、こうして教会全体が整えられるようになるためなのです。一人一人が、神に対して十分の一をささげることが、ひいては神の栄光のために、教会の素晴らしい発展へとつながってゆく。
 主のために全生涯をささげて労する働き人についての記述はたくさんあります。なしうる限りに尊敬と愛を用いるように、というのである。またその人が奉仕を嘆きながらするようにでは、支える人自身にとって有害とはなっても、益にはならないとも教えている。
 福音のために、何の後顧の憂いもなく励めるようにする教会員は素晴らしいものである。そこに教会としての健全な成長を遂げる姿勢があるからです。霊的な救いへの導きと励ましと希望を受けた教職への神の定めなのですが、その奉仕をさせていただく中で成長を遂げるのです。
 19節から以降は、福音のためにすべてのことをして、自分を喜ばせることを退けるのです。それは福音を伝えている自分が失格者にならないためだ、パウロは言う。こんなにも福音のために生涯をささげることの偉大な意味を歩む生き方を惜しみなくしたいのです。それでこそ、神への捧げ物をする人と受ける伝道者が一つになる素晴らしい場になるのです。

主題 <神を愛する知識によって> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一 8章(2011年10月16日)

今日のみことば「次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(1)

この章のパウロの言葉も、心を探る名言である。知識は私たちにとってはどんなに魅力的でありましょう。人の知らないことを知っている、学歴と学識がある、というだけで人々の尊敬のまなざしを受けられるのです。
知識は、それがほんとうに優れているなら、知るべきことさえ知るべきことさえ知っていないことがわかってくる者であり、いっそう謙虚になってゆくのである。ほんとうに知識は、人を生かし、社会を変え、生活を変えて行くものである。ところが、しばしば多くの知識が、その人をして高慢に陥らせる場合が多い。
なぜだろうか。あなたの周囲で、多くの知識を持ちつつ、謙遜な人がいるだろうか。その人はなぜ謙遜なのだろうか。
その反対に、愛は人の徳を立てる人である。愛が増し加わる中で、だんだん高慢になってゆく人がいるだろうか。愛があるので、人を倒してゆくような人がいるだろうか。
「8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」なんという洞察だろうか。
「8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」神を愛することこそ、知識の中の知識です。

主題 <主に属する自由人>

聖書箇所 コリント人への手紙第一 7章(2011年10月15日)

今日のみことば「奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」(22)

すべての人は、誰かのために生きるように造られております。だから、そういう性質を持っているのではないかと思います。ただその目的が見えなくなり、的外れとなってせっかくの人生が台無しになっている人々がいるのである。
ヨハネの福音書8章で「罪を犯す者は罪の奴隷である」とユダヤ人に主は語られている。聞いていたユダヤ人たちは、私たちはだれの奴隷にもなったことがないと反論している。自分の本当の状態がわからなかったのである。
ここではさらにもっと高いレベルの生活信条を描いております。奴隷でクリスチャンになった人々はたくさんいたようである。ところが彼らが奴隷解放を叫んでいないし、社会の改革を直接にはになっていない。しかし、彼らの生活は奴隷でありつつ、自由人のように生きる精神を持っていたのである。
また反対に、自由人たちもまたたくさんクリスチャンになったのである。彼らは自分たちの自由を神の栄光のためにささげることを決心する。自分のために生きないで、神の奴隷のようにささげて生きるのである。こうして教会は、社会機構を直接変えていないようで、内面からの革命をし遂げたのである。さてあなたはどうですか。

主題 <訴え合うのではなく> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一 6章(2011年10月14日)

今日のみことば「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。」(7)

この聖句には、ほんとうに驚かされてしまう。この世に生きるクリスチャンが、この世からのむごい取り扱いを受けたときの心得を通して、現実の乗り越え方を教えている。
 これは一つの賢明な方法であり、私たちを訴える人々の事柄に心を動かさないと言う道なのである。訴える人に対して、自己の正当性を主張しても、この世的な人には通用しないし、かえって噛みついてきて傷が深くなるのである。これまでの敬虔な生き方に大きな傷を与えてしまいます。
 だから、訴え合うことをしないで、主が歩まれた道をたどる決心をすることである。主が歩まれた道は、この世的な人から正しく評価されたわけではない。それどころか正しい方をつるし上げ、十字架につけていったのである。
こういう世的な世界にいて、この世界から高く評価されたらたまったものではない、と考えるべきなのである。曲がれるよこしまな世界から称賛を期待することから解放されよう。
 むしろ誤解の中に身を置き、訴えを甘んじて受ける覚悟が大事なのである。主は的外れな訴え、裁判の中でむしろ王者のようなゆとり、平和を持っていた。
 不正な取り扱いに甘んじる生き方は、消極的なように思えて、王者の生活なのです。互いに訴え合っていたら、敗北だと教えます。キリスト者の恵みの生活をまなびとりたい。

主題 <高慢の罪> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一 5章(2011年10月13日)

今日のみことば「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。」(6)

人間の罪は、どこに最後に現れるものでしょうか。それは高慢という場所に現れるのです。高慢はサタンが用いる最良の場所なのであり、キリスト者にとっては、最大に危険な場所です。しばしばその誘惑に負けて、滅びの大穴に落ち込む人物がどんなに多いことだろう。
 使徒がコリント教会に驚くほどの罪が行われていながら、自分たちは相当なものだと誇っていたのであり、高慢な心だったのです。それどころか使徒よりも自分たちの方が優れていると思っていたのです。この教会を牧会しているパウロの耳を貸そうともしていなかったのである。
 このような事態は、悲しむべきことですが、時折見られる現象である。その小さなパン種が粉全体をものすごくふくらませ、教会のうちに罪が蔓延するようになってしまう。彼が手紙を出したのはこの痛みのゆえである。
自分の高慢な罪を謙遜に認めることはむずかしい。ことに立場のある、経験のある人ほど困難がともなう。けれども、「5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。」とすすめられているうちに、一日も早く悔い改めたいものである。
 いつも新しい粉のかたまりでいたい。恵みに輝くたましいを保持して行きたい。神の大きな恵みをうちに宿しつつ、一つの目当てに進みたい。

主題 <愛と寛容をもって> 

聖書箇所 コリント人への手紙第一 4章(2011年10月12日)

今日のみことば「あなたがたはどちらを望むのですか。私はあなたがたのところへむちを持って行きましょうか。それとも、愛と優しい心で行きましょうか。」 (21)

 パウロはよほどコリントの教会については悩んでいたのであろう。言葉のはしばしに、そのうめきが聞こえてくる。こういう叫びを聞くと、何かを深くうなずくのである。
 コリント教会員の中で、ある人は、パウロをさばいていたのである。パウロを使徒として認めないと主張している人がいた。
彼らは、自分がまるで王さまになったかのようにふるまい、パウロはコリントまでは来はしない、とタカをくくっていた。思い上がっていたのである(18-19)。
 こうした教会員も、使徒にとっては愛する存在であった。彼らの心根をなんとかして変えて上げたい。そうしないと、せっかくの人生が台無しになってしまうのだ。だから、彼らを変えるために、教会戒規を執行しなければならない。高慢になっている彼らを愛するゆえに訓練をするのです。
 このためになおもパウロは、愛と寛容をもってゆこうと決心している。何という優しさであろうか。
ところで、私たちの主は、再びこの世に来られるときの心も同じである。さばきのむちではなく、愛と赦しを携えて来たいと望んでおられるはずです。主の愛と忍耐を使徒の祈りと励まし、苦悩の中に垣間見る思いがする。
私たちの祈りや信じる生き方が、失望と弱さに置かれている周囲の方に神の温かさと恵みを携えるものでありたいですね。